中国地方を中心に勢力を拡大した毛利元就。彼の有名なエピソードといえば「三本の矢」の教えです。
広島県のサッカーチーム「サンフレッチェ広島」の名前は「三本の矢」に由来していて、
またアベノミクスにも三本の矢という言葉が使われているなー
この話は病で寝込んでいた晩年の元就が、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三兄弟を呼び寄せ、
「一本の矢は簡単に折ることはできるが、三本束ねると簡単には折れない」
と伝えました。元就は毛利家を守るために、三兄弟が力を合わせることが大切であると教えました。
実際、元就が亡くなった後、吉川元春は毛利陸軍を率い、小早川隆景は毛利水軍を率いて、兄弟力をあわせて毛利家の勢力を拡大しました。そして、元就の孫毛利輝元は関ケ原の戦いで総大将を務めるほど、毛利家の影響力は大きくなっていました。
江戸時代に入ると、毛利家は長州藩として存続したぞ
ところがこの話はおそらく創作です。というのも、三本の矢くらい戦国武将であれば簡単に折れそうですし、なにより長男の毛利隆元は元就より8年も早くに亡くなっており、元就の死に際に立ち会うことは不可能でした。
また次男の吉川元春は出雲(島根県)の尼子家を征伐するために出陣中です。つまり、元就の死を見届けることができたのは三男の小早川隆景だけでした。
次男の吉川元春はわしのことが嫌いで嫌いで仕方なかったそうじゃ
反対に三男の小早川隆景は豊臣家に尽くしてくれて、五大老までのぼりつめたんじゃ
この三本の矢の逸話は、元就が「三子教訓状」という三兄弟に当てた書状が元になっています。書状の中で、毛利家の繁栄のために兄弟で力をあわすことが大切であると述べられています。その内容が広まってゆく過程で「三本の矢」の逸話が生まれたのでしょう。
一方で側室の子に対しては「虫けらのように分別のない子」とあしらっています。どの子たちも10歳に満たない子どもにも関わらず、冷たい言い方です。
一説には元就が死に際に大勢の子どもたちを枕元に呼び寄せて、「束ねた弓矢は折れない」と教えたともいわれているぞ
元就殿は筆まめな人でたくさんの書状を残しておるぞ