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豪傑武将も実は愛妻家!?戦場とは違うひと味違う顔をみせたかわいい武将たち

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ひろ
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戦国武将の中には妻を大切にする愛妻家の武将もいたみたい

豊臣秀吉
豊臣秀吉

わしかて、側室をもったがねねを大切にしたぞ

ひろ
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今回は愛妻家戦国武将を5人紹介していきます!

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前田利家

戦国のおしどり夫婦といえば、前田利家まつが有名です。まつは4歳のときに前田家に引き取られました。それから8年後に当時としては珍しい恋愛結婚で夫婦となっています。利家が20歳で、まつが12歳でした。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

わしも恋愛結婚じゃよ

ところが、結婚してまもなく利家は主君の織田信長が気に入っていた茶坊主を斬り殺してしまい、リストラされてしまいます。利家が再び織田家に復帰するまで2年もかかりましたが、まつは利家を信じてついていきました。

ひろ
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利家の若い頃は暴れん坊だったからなー

また、利家は小心者で重要な場面ではよく尻込みをしていました。そのため、賤ヶ岳の戦いで友人の豊臣秀吉に従うか上司の柴田勝家に従うか迷っていました。そんな時にまつは秀吉の妻のねねと仲がよかったことから、2人の間を取り持っています。

まつは利家の死後も前田家のために尽くしています。江戸幕府から息子の利長に謀反の疑いが掛けられると自ら人質となって江戸へ向かったほどでした。つまり、加賀百万石は利家の功績だけではなく、まつの献身的な支えがあったからこそ成立したのではないでしょうか。

ひろ
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利家はまつ以外にも側室をもっていたんだよ

前田利家。浪人時代にお金がなかったせいか
ケチでそろばん大将といわれる。(wikipedia)

明智光秀

本能寺の変織田信長を裏切った明智光秀はかなりの愛妻家として知られています。2人の出会いは政略結婚です。煕子ひろこは美人でしたが、当時流行していた天然痘てんねんとうにかかってしまい、頬にあばたが残ってしまいました。しかし光秀は「人の容姿は変わるけど、心の美しさは変わらない」と言って、煕子と結婚します。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

明智殿は律義者じゃな

結婚直後、明智光秀は戦に敗れて浪人となってしまいました。そのため、資金が全くありません。そこで、煕子はお金を稼ぐために自らの長い美しい髪の毛を売って、生活の足ししました。光秀はこのことに深く恩を感じ、出世しても側室を娶ることはありませんでした。

ひろ
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戦国時代、妻が亡くなっても男性は葬儀に出席しなかったけど

光秀は煕子の葬儀に出席しているよ

明智光秀。3男4女と子宝に恵まれた。
(本徳寺蔵)

毛利元就

謀将として名高い毛利元就も愛妻家でした。元就と正室の妙玖みょうきゅう政略結婚によりむすばれましたが、夫婦仲が良く子宝に恵まれました

ひろ
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その子どもが毛利隆元吉川元春小早川隆景の3人か

妻を大切にしていた元就は妙玖が生きている間は側室を娶ることはありませんでした。ところが、妙玖が亡くなるとよほどショックだったのか、元就は3日間も部屋に引きこもって泣いていたいいます。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

このときに、元就殿は突然隠居すると宣言したんじゃ

また、筆まめだった元就は子どもたちによく手紙を書いていました。その内容は「こんな時に妙玖がいてくれたら…」とか、「もう一度だけ妙玖に会いたい」など。妻が亡くなってからは妙玖のことばかり書いているため、息子たちはうんざりしていたようです。

ひろ
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冷徹そうな武将だけど

奥さんは大切にしていたとは

毛利元就。息子たちに母の供養を怠らないように
と指導している。(山口県豊榮神社蔵)

浅井長政

浅井長政お市の夫婦は有名です。織田信長浅井長政との同盟のために結ばれた2人は政略結婚でしたが、仲睦まじかったようです。2人の間には1男3女に恵まれて、幸せな結婚生活だったといわれています。

ひろ
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関係が続いたらよかったのに、、、

ところが、織田と浅井の同盟が破綻してしまい敵同士になります。やがて、織田信長は長政の居城を包囲。お市は「長政と運命を共にするといって自害しよう」としました。しかし、長政は「子どもたちと生きよ」と説得し、お市とその子どもたちは織田の陣営に逃げてゆきます。長政をそれを見届けて自害して果てました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

お市はこのあと柴田勝家と結婚するんじゃ

残念じゃわ

浅井長政。美男美女カップルだったことで知られる。 
(高野山持明院像)

島津義弘

鬼島津の名で名高い島津義弘。猛将で一見恐ろしそうですが、その素顔は優しい人物だったようです。義弘は生涯3人の妻をもうけましたが、園田清左衛門という家臣の娘・あかしを大切にしました。

2人の出会いにはこんな逸話が残っています。あかしが大根を洗っているところに、鷹狩から戻った義弘が大根を所望したそうです。あかしは手渡すのではなく、被っていた傘に載せて大根を渡しました。義弘は「なんと気がきく娘じゃ」と関心し、やがて惚れてしまったといいます。そして義弘は正室を亡くしたばかりだったため、あかしを正室として迎え入れました

ひろ
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あかしは義弘の寵愛を受けて

後継ぎの島津忠恒を産んでいるよ

豊臣秀吉
豊臣秀吉

島津殿が留守の時は代わりに城を守っていたんじゃ

島津義弘が朝鮮に出陣したときでも、あかしを気遣って手紙を送っていたといいます。その内容は次のようなものでした。

3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子どもたちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。

お前には多くの子どもがいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい

と義弘が戦中であっても妻を思っていることがよくわかります。

ひろ
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60歳を過ぎてもラブレターを送っていたとは

島津義弘。朝鮮の戦いではあまりに勇敢で
鬼島津と恐れられた。(大日本六十余将)

まとめ

戦国武将の多くは子孫を残すために側室をもうけていましたが、中には愛妻家の武将がいたとは驚きですね。

猛将たちの優しい一面を知ると、戦国武将って現代人と同じ人間なんだなーと思いませんか。

ひろ
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恋心は今も昔も変わらないから

源氏物語は長く読みつがれているんだろうな

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