現代には厳しい上司やパワハラ気質な上司がいるけど
戦国時代にも存在したのかな?
わしらは命をかけて戦っておるから
主君はかなり厳しいんじゃ
ひぇー、恐ろしい
今回は厳しすぎるお殿様を紹介していきます!
長州藩の源はここにあり
毛利元就は天才的な戦術で一代にして中国地方の覇者となった大名。しかし、家臣を統制するために荒っぽい手段を厭わなかったという。
元就は家臣団を統制するため、次男の元春を吉川家へ、三男の隆景を小早川家へ送った。重臣の井上家が力を持ちすぎたことを懸念して、何の前触れもなく滅ぼしてしまった。
粛清を恐れた家臣団は起請文を提出して、忠誠を誓ったという。
この頃から、元就殿は家臣たちに「お館様」ではなく「上様」と呼ばせておったんじゃ
また、元就は戦場でも厳しく、「少しでも敵が強いからといって逃げ出すものはクビ、大将の命令に背いたものはクビ」と家臣たちに言い渡した。さらに、外様の家臣にはかなり厳しくあたった。外様の尼子旧臣らは当然の如くもとの領地を没収され、別の場所へ移されてしまった。このような家臣団の締め上げにより、強い毛利家は形成され、のちの長州藩に繋がったのだろう。
元就が厳しいのは、家督相続のタイミングで元就の弟の家臣たちが反乱を起こしたからだろうな
まさかのタダ働き!?
上杉謙信は戦国最強と謳われた武将。しかし、謙信はたびたび家臣たちの反乱に悩まされていた。
どうして、家臣たちは反乱を起こしたんだろう?
謙信は義を重じており、自分の好き嫌いに関係なく助けを求めてきた者には手を貸していた。また、朝廷や幕府など、古い秩序を守ることが大切と考えていた。そのため、何度も北条家の監視のために関東に出兵したり、川中島で武田信玄と何度も対陣している。
とはいえ、人助けをしたところで領土は増えない。つまり、家臣に与える領地がなく、家臣たちはただ働きで戦場に出向くことになっていたのであった。そのような状況であったため、上杉家ではたびたび反乱が起こったという。
家臣たちに与えられるのは感状ばかりで
領地をもらえないのではやってられないよな
晩年は謙信公も領土拡大のために動き出したんじゃよ
魔王は能力主義ではなかった?
織田信長は通説によれば能力主義者だったとされている。それは、豊臣秀吉が百姓の生まれであったからにも関わらず、能力があるからと取り立てられたことが有名だからであろう。
とはいえ、これは信長のほんの一面にすぎない。
実際には信長は故郷の尾張(愛知県)出身者を待遇していた。尾張時代からの家臣には柴田、丹羽、佐々、前田などがいる。しかし、明智光秀などの美濃(岐阜県)の出身者は少ない。ましてや、近江(滋賀県)や畿内の武将たちが織田家の重臣となることは少なかった。
信長でも故郷の者を優遇していたとは!
ところが、織田家の勢力拡大に伴って、家臣の追放が目立った。佐久間信盛は尾張時代からの重臣であったが、働いていないと理由でクビにされた。さらに、20年ほど前に信長の弟を担いで反乱を起こしたとして林秀貞と丹羽氏勝も追放された。つまり、能力のある譜代家臣を重用しており、信長も他の大名と同じような基準で武将を採用していたことがわかる。
信長がどんどん譜代家臣を追放していくのをみて
明智光秀はいずれ自分もクビにされるのではと恐れて本能寺の変を起こしたのかも
厳しすぎて家臣逃亡
井伊直政は徳川四天王の一人で、彦根藩(滋賀県)の藩祖。とはいえ、直政は三河出身でもなければ、徳川家康に仕えたのも譜代家臣の中では遅い方であった。その中で出世するために、自分にも厳しく家臣にも厳しい態度で臨んだという。
直政が家康に仕えた頃、井伊家は今川家によりボロボロにされて家臣という家臣がいなかった。そこで、家康から家来を与えられた。また、武田家の滅亡に伴い、武田旧臣の多くは直政の家臣となった。
これが、武田の赤備を井伊直政が引き継いだ理由だな
家臣を得た直政は常に最前線に出て、果敢に戦った。自分の勇姿をみせ、直政はこれを家臣たちにも要求した。そのため、直政の突撃についてこれないものは容赦なく手討ちになり、退却したものは死罪となった。その結果、井伊隊は抜群の戦闘力を誇る一方で、戦が起こるたびに死傷者が続出したという。
家臣の中には直政があまりにも恐ろしく、思わず逃亡してしまうものもいた。直政は逃亡したものへ暗殺を企てたこともあったという。
家康に気に入られて直政はどんどん出世していったから
期待に応えるために武功を挙げないといけないと感じていたんだろうな
まとめ
戦国武将たちは命をかけて仕事をしている。そのため、主君が家臣に対して現代人では考えもつかないような厳しい仕打ちをすることも多々あったのだろう。しかし、家臣たちは主君が天下をとると信じていたからこそ、厳しさにもついていけたのではないだろうか。
今回紹介した武将はお家を急成長させた武将ばかり!