戦国最強の軍師といえば
竹中半兵衛と黒田官兵衛ですよね
2人とも天才的な軍略でわしの出世を支えてくれたんじゃ
今回は黒田官兵衛と竹中半兵衛の2人を比較しながら
最強軍師を決定しましょー!!
竹中半兵衛
竹中半兵衛(竹中重治)は美濃(岐阜県)に斎藤家の家臣の子として生まれ、長良川の戦いが初陣となった。斎藤道三に従っていたが、義龍、龍興に親子に仕えるようになった。
半兵衛は幼い頃から兵法書を読み込んでいたため、軍略に優れていた。しかし、その温和な性格や細身で色白の女性のような顔立ちのせいで、主君の斎藤龍興からバカにされていた。
半兵衛は剣術の達人でもあったみたい
半兵衛が豊臣秀吉に仕えてからは、中国攻めに赴いて天才的な軍略で秀吉の出世をサポートした。
若くして亡くなったのが残念じゃな
黒田官兵衛
黒田官兵衛(黒田孝高)は播磨(兵庫県)に黒田職隆の長男として誕生した。黒田家は代々商人の家系であったが、父が有能であったため、小寺家の縁戚となって家老職を務めた。そして、官兵衛が家督を継ぐと、勢力を拡大していた織田信長に従い、豊臣秀吉に居城の姫路城を差し出した。
官兵衛は軍師として豊臣秀吉を支えたが、あまりの実力に秀吉から恐れられていた。そのため、秀吉が天下を取ると家督を長男の黒田長政に譲って隠居した。
実力のある武将はいつ言いがかりをつけられるかわからないから大変ですね、、、
それでは竹中半兵衛と黒田官兵衛を戦術、交渉術、人となりの3点で比較していきます!
戦術
竹中半兵衛の軍略
竹中半兵衛は豊臣秀吉に仕える前は美濃の斎藤龍興の家臣であった。ところが、龍興が酒に溺れて政治に興味を示さなかった。あきれた半兵衛はわずか17人で難攻不落の稲葉山城を奪還して占拠した。
これには織田信長も稲葉山城を明け渡すならば、美濃の半分を与えようと半兵衛に持ちかけたほど。その後、豊臣秀吉は半兵衛の才能に惚れ込み、軍師になるよう頼み込んだ。
このとき、半兵衛はわずか21歳!!
黒田官兵衛の軍略
黒田官兵衛は城攻めを得意としていた。特徴的な城攻めを2つ紹介する。
1つ目は鳥取城攻めで起こった「飢え殺し」戦法。官兵衛は鳥取城を攻める1年も前から収穫されたばかりの米を通常の値段以上で買い取った。金に目が眩んだ農民たちは次々に米を売り、備蓄米までも売られた。その後、官兵衛は鳥取城の城下を焼き払うと、領民たちは城へ逃げ込んだ。
しかし、鳥取城には通常の倍近い4000人ほどの人で溢れかえり、兵糧はすぐに尽きた。城内の人は家畜や馬までも食べたが、ほとんどが餓死してしまった。結局、4ヶ月ほどで城主は降伏し、鳥取城は開城された。
人が人を食べるという悲惨な光景が広がったとか
2つ目は備中高松城攻めである。備中高松城は湿地の中にあり、大群で攻めづらい。そこで、官兵衛は水攻めを決行した。官兵衛は豊臣軍の経済力を活かして、大量の人員を動員して堤防を作り、川を堰き止めた。梅雨の時期でもあったため、城の周りの水位はすぐに上がり、備中高松城は浸水した。これにより、城主は降伏し、豊臣軍の勝利が決まった。
豊臣軍は経済力を活かして
戦わずに勝利していったんじゃ
交渉術
竹中半兵衛の交渉
竹中半兵衛の交渉術が発揮されたのは小谷城の戦いである。織田信長は半兵衛に浅井家臣への裏切り工作を命じた。半兵衛はすぐに浅井重臣の堀秀村と宮部継潤らを織田家に引き込んだ。
半兵衛は同僚との交渉術にも長けていて
相手を褒めてから、「もう少し足軽の位置を左にすると秀吉公は感心するでしょう」
と相手のプライドを傷つけずにアドバイスを行っていたよ
黒田官兵衛の交渉
黒田官兵衛は小田原征伐の時、北条氏政・氏直親子を説得して無血開城を成功させている。小田原城といえば、武田信玄や上杉謙信ですら陥落させれなかった城である。当然、官兵衛の主君・豊臣秀吉も攻め落とすのに苦労した。
そこで、官兵衛は酒と魚を贈り届け、関東を100年以上も守り抜いてきた北条家に敬意を示し、懐柔しようとした。北条はそのお返しに、鉛玉と火薬を贈り返してきた。つまり、北条はもう戦うつもりはない。降伏するという意味である。その後、官兵衛は丸腰で小田原城に乗り込み、礼を尽くして北条家を説得して無血開城に成功した。
官兵衛の交渉術は息子の黒田長政にも受け継がれていますよね
人となり
竹中半兵衛の人間性
官兵衛が豊臣秀吉に仕えて間もない頃、毛利方の大名を織田方に寝返らせたことで官兵衛は秀吉から感状を賜った。官兵衛は有頂天になって半兵衛に見せたが、半兵衛はその感状を破いたという。そして、「こんなものを残しておいてもそなたのためにはならない」と官兵衛を諌めたという。
1578年、織田信長の家臣・荒木村重が突如裏切って毛利方につく事件が起こった。官兵衛は村重と交流が深かったため、信長からの命令に従って有岡城へ説得に向かった。しかし、官兵衛は捕らえられて幽閉されてしまう。
官兵衛がいつまで経っても戻らないため、信長は官兵衛が裏切ったと思い、人質の松寿丸を処刑するよう豊臣秀吉に命じた。半兵衛はこのことに反対し、松寿丸を匿った。そして、代わりの子どもの首を用意して、ことなきを得たという。
1年後、有岡城が陥落したため官兵衛は解放されたが、半兵衛は結核ですでにこの世を去っていた。官兵衛は息子を救ってくれた半兵衛に深く感謝したという。
ほかにも、半兵衛はいつも安い馬に乗って
緊急時にいつでも乗り換えられるようにしていたとか
黒田官兵衛の人間性
黒田官兵衛はかなりのキレものだった。豊臣秀吉が織田信長の命に従って備中高