戦国時代はたくさんの荒くれ者が現れて暴れてまわっていた時代!
主君に貢献するためとはいえ
無茶苦茶な武将もいたぞ
今回は暴れん坊の戦国武将をランキング形式で5人紹介!
第5位
ガラシャの夫・細川忠興。明智光秀の家臣時代には信貴山城の戦いに出陣し、顔に傷を負いながらも戦 いました。また、降伏してくる敵方の兵を無闇に斬り、光秀から忠告を受ける暴れっぷりを見せています。
ところが、本能寺の変をきっかけに光秀を裏切り、妹の夫・一色義定をも討ち取っています。このことで、妹から顔に深い傷を負わされることになってしまいました。
忠興はとにかく気が短くて
ガラシャへの束縛が有名だよ
忠興は嫉妬深いことで知られており、ガラシャに会釈した庭師を斬り、刀をガラシャの小袖で拭ったといいます。さらに、ガラシャのお椀に髪の毛が入っていた時には、料理人の首をはねて、ガラシャの膝の上に置きました。
忠興は合戦というより
平常時に暴れていた武将だな
第4位
豊臣秀吉の最古参の家臣・仙石秀久。豊臣秀吉に仕えて、姉川の戦い、四国攻めに出陣して10万石の大名にまで出世しています。
とんとん拍子の出世!
ところが、九州攻めでは長宗我部元親の忠告を無視して独断で出撃。ところが、島津軍の釣り野伏せ戦法に引っかかり、豊臣軍に大損害をもたらしてしまい、秀久は命からがら自国まで逃亡しています。この様に秀吉も大激怒して秀久を高野山へ追放しました。
しかし、勝手に小田原征伐に出陣。その時に、陣羽織に無数の鈴を縫い込み、動くだけで音が鳴るパフォーマンスをして秀吉と和解しています。
戦国武将の中で最も失敗して
最も挽回した武将だな
第3位
福島正則の家臣の可児才蔵。若い頃に槍の達人・胤栄に十文字槍のイロハを学び、数々の主君には仕えました。森長可に仕えて甲州征伐に出陣したときは、16もの首を討ち取ったが持って帰ったきたのはたった3つだけ。長可が理由を問うと、
「首が多すぎて捨てました。ただ、討ち取った首には笹の葉を含ませてあります。」と返答。
その後、長可の手下が調べると、笹の葉をくわえた13の首が見つかったといいます。
さらに、福島正則から謹慎処分を下されていたにも関わらず、関ヶ原の戦いに出陣。17もの首を討ち取り、その全てに笹の葉をくわえさせていました。これには徳川家康も驚き、賞賛したといいます。
このことから笹の才蔵という異名をつけられるようになったんじゃ
才蔵は主君の豊臣秀次に暴言を吐いたこともあるよ
第2位
森蘭丸の兄・森長可。織田信長が手を焼いていた長島一向一揆に出陣すると、川の向こう側にいる一揆勢に突撃して27もの首級を挙げました。さらに、甲州征伐では勝手に先陣切って斬り込み、交戦し始めています。その後の高遠城の戦いでは、城の屋根に登り、天井を引き剥がして城内へ鉄砲をぶっ放しました。
本陣に戻ったときには
身体中、真っ赤だったらしいよ
長可は合戦以外でも暴れており、関所を早く通過したいばかりに、関守を斬っています。これを聞いた織田信長は「武蔵坊弁慶のようだな」といい、以来長可は鬼武蔵と呼ばれるようになります。
長可が愛用した槍は人間無骨といって
切れ味のいいこの槍の前には人間の骨など無に等しいという意味じゃ
第1位
徳川家康の家臣の水野勝成。勝成は初陣から15もの首級をあげました。天正壬午の乱では軍記に反して抜け駆けをし、300もの首を討ち取っています。
さらに小牧長久手の戦いでは兜をつけずに出陣して1番槍を挙げ、猛将の森長可を撃破。ところが、父との諍いから家を出て各地を放浪し、虚無僧となり下がります。その間に、さまざまな主君に仕えながら自らの腕を磨いていたといいます。
豊臣秀吉から水野勝成へ刺客を放たれたこともあるらしいよ
豊臣秀吉が亡くなると、徳川家に戻って父と和解。52歳の時には大坂の陣に出陣し、部隊の大将であるにも関わらず、先陣を切っています。さらに75歳で迎えた島原の乱でも活躍しています。