一代で四国を統一するも、秀吉に屈服した長宗我部元親!!

戦国武将
ひろ
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長宗我部元親は四国を中心に活躍した武将やな

名字が四文字で珍しいな

豊臣秀吉
豊臣秀吉

元親は四国を平定したんじゃが、

わしには降伏せざるを得なかったわい

ひろ
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四国を統一したのに、すぐに土佐一国に戻されたもんなー

それでは長宗我部元親の生涯をみてみよう!!

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長宗我部元親の年表

ひろ
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土佐から順調に勢力を拡大したんやなー

豊臣秀吉
豊臣秀吉

元親は賤ヶ岳の戦いで勝家殿に、小牧長久手の戦いで家康に味方したりと、

豊臣政権と反抗しておったから天下人の力を見せつけてやったまでじゃ

浦戸城跡。元親が築いた居城。
江戸時代になると新しい藩主山内一豊によって廃城となる

長宗我部元親の相関図

ひろ
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元親が明智光秀と関係があるのは意外やなー

豊臣秀吉
豊臣秀吉

光秀の家臣斎藤利三の娘が元親に嫁いでおるからなー

長宗我部元親の誕生

長宗我部元親ちょうそかべもとちかは1539年、土佐(高知県)長宗我部国親長男に生まれました。祖父の代に城を周りの領主に奪われいましたが、父国親はこれを奪い返して、長宗我部家の勢いを盛り返していました。

ひろ
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長宗我部家の先祖は「秦の始皇帝」ともいわれているで

幼少期の元親は色白で物静かな大人しい少年だったので「姫若子」と呼ばれていました。ずっと本ばかり読んでいたので、家臣たちは武将としては使い物にならないだろうと思っていたそうです。

ひろ
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内気で口もきけないほどやったらしい

22歳という遅い初陣となりましたが、槍をもって突撃し大活躍をし、家臣たちを驚かせました。元親の活躍により、土佐の有力武将本山家に勝利します。

そして合戦ののち、父国親が亡くなり元親が家督を継ぎました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

元親の活躍をみた家臣たちは「姫若子」から「鬼若子」と呼ぶようになったそうじゃ

四国を平定!

当時土佐には多くの武将がおり、土佐七雄といわれていました。

そこで家督を継いだ元親は軍を強くするため一領具足制度(半農半志)を採用しました。一領具足とは、平時は田畑を耕す農民で、合戦のときになると兜や鎧を身に着けて出陣する武士のことです。

この体制が功を奏し、12年の歳月をかけて土佐を平定しました。

ひろ
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軍記物「土佐日記」には「生死知らずの野武士」と書かれているほど勇敢な侍が多かったみたい

土佐統一後、四国での勢力を拡大していた元親は、勢力を拡大していた織田信長と同盟を結びました。そして、阿波(徳島県)へと侵攻し、敵対勢力を次々に降伏させました。

ところが、信長は突然同盟を反故し、阿波の十河そごう(三好)康長と同盟を結んで四国征伐に打ってでます。信長の裏切りによって、元親は窮地にたたされましたが、本能寺の変で信長が亡くなったことで存続の危機を免れました。

ひろ
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元親と信長の同盟を取り持っていた明智光秀の面目は丸くずれとなったから、

本能寺の変を起こしたともいわれている

本能寺の変で織田家の勢力が弱まると、十河存保そごうまさやすを撃破して阿波を平定します。そして讃岐、伊予に侵攻して、ついに念願の四国統一を果たしました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

十河和保との中富川の戦いは激しい合戦だったそうじゃ

長宗我部元親像。
内政にも力を入れ山林資源を重視して、伐採を抑えた
(鶴亭秀賀作)

晩年は性格が一変!?

四国を平定した元親でしたが、天下人豊臣秀吉の弟豊臣秀長に攻められてしまいます。そして1585年、元親は豊臣の圧倒的な力の差に敗れてしまい降伏しました。

10年以上かけて四国を統一した元親でしたがわずか数ヶ月で失い、土佐一国に戻されてしまいます。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

豊臣は毛利家を味方に従えて、11万の兵で攻め込んだんじゃ

その後は秀吉のもとで九州攻め小田原攻め朝鮮出兵にも参加しました。

元親は武勇に優れている一方で、性格もよく人徳者であったとされています。しかし、秀吉の九州攻めの際に長男信親を失い、その性格は一変しました。悪逆非道の君主となり、跡継ぎを次男、三男ではなく四男の盛親とし、反対する家臣は皆殺しにしたといわれいます。

ひろ
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信親が亡くなったと聞いて自殺をはかったともいわれているで

秀吉による四国征伐の図。元親は三方面から攻められて降伏した。
長宗我部元親像。秀吉が亡くなった後は家康に接近した。
(絹本著色長宗我部元親像)

まとめ

長宗我部元親は土佐の一介の領主であったにも関わらず、破竹の勢いで土佐を統一し、その後四国を統一しました。しかし、実力があるにも関わらず運とタイミングがなく、天下統一の夢は叶いませんでした。

四国攻めの後、元親は秀吉と次のようなやり取りをしたそうです。

元親が秀吉と聚楽第じゅらくだいで宴会をしたとき、

今から四国の覇者を望むか、それとも天下に心をかけたるか

と秀吉が聞くと、

元親は

天下に心をかけ候。ただ悪しき時代に生まれて天下の主になり損じて候

と言い放ったといいます。

元親は純粋な実力では秀吉には劣らないと常々考えており、土佐一国に戻されたことを悔しく思ったのでしょう。

ひろ
ひろ

元親が亡くなったあと、跡を継いだ盛親は関ケ原の戦いに敗れて滅びてしまったなー

長宗我部盛親。大坂の陣で亡くなった。(蓮光寺蔵)

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