森蘭丸は織田信長に仕えた側近として有名やなー
蘭丸は最期まで信長殿に仕えて、本能寺の変では一緒に亡くなったんじゃー
それではイケメン武将森蘭丸の生涯をみていこう!
森蘭丸の年表
本当に短い生涯なのに、かなり多くの人に知られている武将だなー
信長殿が寵愛したからじゃろな
森蘭丸の相関図
蘭丸はふたりの弟・坊丸と力丸と力を合わせて
最期まで本能寺で信長を守ったんや
しかし、合戦上での経験が乏しいからあまりうまく戦えなかったんじゃ
森蘭丸の誕生
森蘭丸は1565年、尾張(愛知県)に森可成の三男として生まれました。本名は森成利といいます。父・可成は織田信長の客将として織田家を支えた人物。槍の名手として知られた可成でしたが、合戦で亡くなってしまいます。
この時、蘭丸はわずか5歳だったよ
織田信長の小姓として
蘭丸は13歳の時に信長に小姓として仕え始めます。このとき、蘭丸の弟である坊丸と力丸も一緒に信長の小姓として仕えています。
小姓とは主君の身の回りの世話をしたり
諸大名との取次をしたりする秘書のような役割じゃな
蘭丸は信長の側近として活躍し、信長の「お気に入り秘書」となっていました。そして、なんと18歳の時に5万石の所領を与えられています。
蘭丸は領土を美濃(岐阜県)のあたりにもらったけど
ずっと信長の側で仕えていたから生涯一度も領土に訪れることはなかったんだ
1582年、信長は公家たちと一緒に京都の本能寺で茶会を開き、蘭丸もこれに同行。その夜、明智光秀は信長を撃つため1万3千の兵をあげて本能寺に向かって進軍。蘭丸たちは信長を守るため果敢に応戦しましたが、明智軍の圧倒的な兵力差に、信長とともに敗れて亡くなってしまいました。
明智光秀が本能寺に攻め込んできたとき、
信長は「誰の仕業だ」と聞くと、
蘭丸は「明智光秀の謀反と思われます」と報告。
すべてを悟った信長は「是非に及ばず」といって自害したみたい
森蘭丸の逸話
信長の側近として仕えた森蘭丸に関する逸話を紹介していくよ
蘭丸は本当に美少年!?
蘭丸はもともと幼少名である「乱」に由来しており、戦国時代の文書では、「乱丸」と表記されています。ところが江戸時代に書かれた信長公記では、華やかなさを感じさせる「蘭」が使用されています。これは、蘭丸が美少年で、上品であることを表すためです。その結果、江戸時代から蘭丸が美少年であるという噂が広まるようになったいわれています。
しかし、蘭丸の父・可成は槍の名手で「攻めの三左」として恐れられ、兄の長可は強靭な戦ぶりから「鬼武蔵」として恐れられた武将です。親族に鬼のような容貌をもつ蘭丸が本当に美少年であったのかは疑問が残ります。
現代とは美的感覚が違うから美少年かどうかを決めるのは難しいなー
爪を数える蘭丸
信長が自分の爪を切り終えると、蘭丸に捨ててくるよう命じました。そのとき、信長から渡された爪が9つしかないことに気づいた蘭丸は、部屋に戻って残りの爪を探したといいます。戦国時代では、爪や髪の毛は呪術に使われるとされており、それを心配した蘭丸は爪を捜索したといわれています。
蘭丸は細かい所まで気を遣えるから信長は蘭丸を重宝したんやろなー
明智光秀の怒りを買った!?
あるとき信長が「お前が欲しいものを紙に書け。ワシの考えと合っていたらお前にそれをやろう」といい、蘭丸が紙に書くと2人の考えは見事に一致したといいます。この時蘭丸は近江坂本(滋賀県)6万石と書いていました。坂本は亡父の旧領でしたが、同時に信長の家臣である明智光秀が当時おさめていた場所でもありました。このことを襖越しに聞いていた光秀が、蘭丸は坂本を奪おうとしていると考え、のちに本能寺の変を起こしたのではないかといわれています。
蘭丸は信長に命じられて光秀の頭を叩いたこともあるみたいだし
二人の仲は悪かったかもしれないなー
まとめ
森蘭丸は織田信長に仕えた側近で、上品で武芸学問に優れたため、かなり信長に寵愛された武将でした。蘭丸が亡くなったことで、森家の家督は弟の忠政が引継ぎ、津山藩(岡山県)藩主として存続しました。
蘭丸には6人も男兄弟がいたのに、
生き残ったのは、六男の忠政だけなんて
戦国時代は厳しいなー