
可児才蔵は猛将であり戦国の荒くれ者やな

主君を何度も変えたが
最終的に落ち着いたのは猛将の福島正則じゃしな

それでは笹の才蔵の異名を持つ
可児才蔵についてみていこう!
可児才蔵の年表




才蔵と福島正則は同じ猛将だから気があっただろうな


そうじゃな
60歳まで生きておるしのー


施した甲冑を着用していたらしい。
(関ヶ原合戦図屏風)
可児才蔵の生涯
可児才蔵(本名は可児吉長)は美濃(岐阜県)に生まれ、近くの願興寺で幼少期を過ごしました。また、若い頃に槍の達人である胤栄に弟子入りして、十文字槍のイロハを学んでいます。


才蔵の前半生ははっきりとはしていないよ
才蔵が最初に仕官したのは斎藤龍興。ところが、織田信長により斎藤家が滅ぼされると、明智光秀、柴田勝家、織田信孝、豊臣秀次、佐々成政、前田利家などの武将に仕えて、居場所を転々としていました。


才蔵の仕えた主君には共通項があるんじゃ
才蔵が何度も主君を転々としたのは、仕えた主君が自刃、滅亡に追いやられたためです。そのせいで、目を引く槍さばきがあるにもかかわらず、思うように出世できていません。


才蔵がより良い主君を求めて放浪した説もあるよ
才蔵は最終的に福島正則に仕官。正則のもとで、小田原征伐や関ヶ原の戦いで活躍しました。


老年になるまで甲冑を着て
馬を乗りこなしていたようだよ


晩年に家来に槍をもたせていると
「才蔵も年をとったな」といわれたそうじゃ
怒った才蔵はその者の首をはねたんじゃ


可児才蔵に関する伝説


才蔵は多くの伝説を残しているぞ
笹の才蔵の由来
可児才蔵が織田信長の家臣・森長可に仕えて甲州征伐に出陣したときのこと。才蔵は合戦で16もの首を討ち取りましたが、才蔵が持ち帰ってきた首はたった3つだけ。
合戦後に主君の森長可から「16も討ち取ったというが、3つしか持っていないではないか」
と問われると


首が多すぎて捨てました
ただし、討ち取った首には笹の葉を含ませておきました
と返答。長可が調べされると本当に笹を含んだ13の首級がみつかったといいます。


首は5キロから7キロくらいの重さだから
16個ももてないもんな


笹を口に含ませるのは、酒(ささ)を討ち取った相手に飲ます最後の手向けという意味もあるんじゃ
また、1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦で抜け駆けをしたことで、才蔵は謹慎処分を受けてしまいます。ところが、暴れん坊の才蔵は主君の福島正則にバレないように関ヶ原の戦いに出陣。そして、17ものを首を討ち取り、その全てに笹の葉をくわえさせました。
そして、戦後の首実検。関ヶ原の戦いの総大将・徳川家康が首を調べさせると本当に17つも笹をくわえた首が、、、。これにはさすがの家康も驚き、大いに賞賛したといいます。


関ヶ原の戦いで最も首を討ち取ったのが才蔵じゃよ


しかも討ち取った首の全てが甲冑を纏った
上級の武士だったから驚き!!


数多くの伝説を残している。(可成寺所蔵)
主君にも物怖じしない!?
才蔵が羽柴秀次に従って小牧長久手の戦いに出陣したときのこと。才蔵は主君の秀次に退却すべきと進言。ところが、秀次は才蔵の意見を聞き入れず、合戦を続けました。
才蔵は秀次に愛想を尽くし、


クソでもお召し上がりになって下さい
と吐き捨てて、1人戦場を去りました。
その後、才蔵の言った通りに秀次の部隊は徳川軍の猛攻を受けて撤退。才蔵が馬に乗って余裕の表情で撤退していると、徒歩で命からがら逃げ帰る秀次と遭遇しました。
そして秀次が才蔵に向かって、


才蔵いいところにいた!
お前が乗っているその馬、私にくれ!
と主君からお願いされますが、


雨の日の傘にて候
と吐き捨てて、主君を放って1人で帰ってしまいました。


秀次が怒ったのはもちろん
豊臣秀吉も激怒して、才蔵へ刺客を放ったというぞ


買って切腹させられた。(瑞泉寺蔵)
まとめ
可児才蔵は猛将で知られ、討ち取った首に笹をくわえさせるというあっと驚くパフォーマンスのできる人物でした。しかし、戦国最強と謳われる能力を持っておきながら、主君が立て続けに滅んだせいで、思うように出世できない不運な武将とも言えます。


合戦では常に最前線で戦いながら
戦国乱世を60歳まで生きながらえたから
ある意味強運の持ち主か?
そんな才蔵にはこんな逸話が残っています。
才蔵は常々、愛宕権現という神様を信仰しており


愛宕権現の縁日に死ぬ
と日頃から言っていました。そして1613年の愛宕権現の縁日の日に亡くなってしまったのです。