
「大河ドラマ・どうする家康」で登場する足利義昭・昌山は
古田新太さんが演じている室町幕府最後の将軍ですね

足利義昭は室町幕府滅亡後
「昌山道休」と名乗って出家していたんじゃ

どうする家康38話に再登場する足利義昭の後半生にフォーカスしました!
足利義昭・昌山の年表
年表 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1537 | 1 | 足利義晴の次男として生まれる |
1542 | 6 | 出家して興福寺の僧となる |
1565 | 29 | 兄・足利義輝が三好の軍勢に暗殺される |
1566 | 30 | 還俗して各地の大名を頼る |
1568 | 32 | 織田信長の後ろ盾を得て上洛する |
1573 | 37 | 織田信長により京都を追放される |
1576 | 40 | 毛利輝元を頼り鞆に幕府を開く |
1582 | 46 | 本能寺の変 |
1587 | 51 | 京都に帰還する |
1588 | 52 | 出家して昌山道休と号する |
1592 | 56 | 文禄の役に出陣 |
1597 | 61 | 大坂で亡くなる |
足利義昭・昌山の家系図


足利義昭・昌山の前半生
足利義昭・昌山(演 : 古田新太)は1537年、室町幕府12代目将軍・足利義晴の次男として誕生しました。兄は13代目将軍・足利義輝でした。足利家の慣例として、長男以外の子息は出家することが多かったため、足利義昭は6歳の時に興福寺で僧となり、「覚慶」と名乗りました。


出家することでお家騒動を防ぎ
幕府は寺との関係を強化したんじゃー
1565年、兄・足利義輝が三好義継の謀反により討ち死にすると、出家していた足利義昭も三好軍に捕らえられ、幽閉されました。


このとき足利義昭が殺害されなかったのは
三好が興福寺を敵に回すことを恐れたからだといいます
その後、足利義昭は細川藤孝や三淵藤英などの側近たちの支援を受けて脱出し、室町幕府の再興を目指しました。初めは越前(福井県)の朝倉義景に協力を求めましたが、拒絶されたため、織田信長(演 : 岡田准一)に支援を要請しました。


当時、足利義栄が14代目将軍となっていたんじゃ
足利義昭は織田信長の支援を受けて上洛し、15代目将軍に就任しました。ところが、次第に二人の間に亀裂が生じ、深い対立が生まれました。義昭は諸国の大名に「打倒信長」を掲げて協力を呼びかけましたが、武田信玄(演 : 阿部寛)の死により、その計画は頓挫。結果として、織田信長は義昭を京都から追放し、室町幕府は1573年に終焉を迎えました。


織田信長と対立したのは「殿中御掟」という要望書を足利義昭に突き出したからでしょうね
足利義昭・昌山は室町幕府没落後に何をしていた?
京都を追放された足利義昭は毛利輝元を頼って、備後(広島県)の「鞆の浦」に逃げ込みました。その地で足利義昭は幕府再興のために、「鞆幕府」を設立しました。


鞆の浦は瀬戸内海の海上交通の要衝で
足利尊氏が軍勢を集結させたなど
足利家のゆかりの地でした
本能寺の変で織田信長が横死したため、足利義昭は再び上洛を試みました。しかし、その頃には豊臣秀吉(演 : ムロツヨシ)がすでに京都を掌握していました。そこで、足利義昭は賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に対抗するため、柴田勝家(演 : 吉原光夫)との連携を模索しましたが、これも失敗に終わりました。


足利義昭がなかなか幕府再興の夢を捨てなかったのは
10代目将軍・足利義稙が京都を追放されても将軍に返り咲いたことを知っていたからでしょうね
豊臣秀吉が関白に就任した後も、足利義昭は将軍の地位を保持し、この「関白秀吉・将軍義昭」の体制は2年半以上も続きました。その後、足利義昭は豊臣秀吉や毛利輝元の援助を受けて、約15年ぶりに上洛を遂げました。そして、朝廷に将軍の職を返上し、再度、出家しました。
出家後も、前将軍として豊臣秀吉から特別な扱いを受け、御伽衆に加えられ、徳川家康(演 : 松本潤)や前田利家(演 : 宅麻伸)といった大名よりも優遇された立場でした。


1588年にようやく室町幕府が名実ともに滅亡しましたね
足利義昭・昌山は朝鮮にいたの?


どうする家康38話で足利義昭・昌山が名護屋城にいましたが
実際に朝鮮出兵していたのでしょうか?
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、明(中国)の征服を企みました。そのため、豊臣秀吉は諸大名に朝鮮への出陣を要請し、足利義昭にも出陣を求めました。足利義昭は3500の兵を率いて、名護屋城に着陣いたしました。しかし、朝鮮への渡航は果たせず、文禄の役が終わるとともに、帰京しました。


足利義昭も朝鮮出兵に駆り出されていたんですね
その後、足利義昭は1597年に61歳で亡くなりました。
足利義昭・昌山の子孫
足利義昭は何人かの側室を迎えていましたが、正室とされる女性はいませんでした。足利義昭の子は足利義尋、一色義喬、永山義在、矢島秀行、矢島重成の実子と足利義尊の猶子がいたと言われていました。
嫡男 : 足利義尋
足利義尋は1572年に生まれました。織田信長の人質となった後、興福寺に入りました。その後、還俗して2人の子を設けましたが、2人とも仏門に入ったため、足利義昭の直系は断絶しました。


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