
徳川家康が大坂の陣で真田幸村に何度も追い詰められたの有名な話

実は、家康が討ち死にしていたと知っておったか?

そうなの?
今回はまことしやかに囁かれている徳川家康討ち死に説を検証していきましょう!!
大坂の陣の通説
徳川家康は江戸幕府を安泰するべく、豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼に宣戦布告し、大坂の陣を起こしました。徳川方は冬の陣での和睦で大坂城の堀を全て埋め立てることに成功。豊臣方は籠城戦ではまともに戦えないと考え、総大将である徳川家康の首を討ち取ることだけを目指しました。


徳川家康は豊臣秀吉から大坂城の攻め方を
飲みの席で教えてもらったことを覚えていたらしい
5月7日、真田幸村は獅子奮迅の活躍をみせ、家康の首めがけて3度も突撃しました。真田隊は徳川本陣の馬印を倒すことに成功するも、真田幸村はあと一歩のところで討ち取られてしまいました。その後、大坂方は大崩れとなり、徳川家康の勝利が確定しました。


家康は死にものぐるいで生き延びて
勝利したんじゃ


それでは、討ち死に説とは一体どんなものなんだろう?


(大坂夏御陣 御危難之図)
徳川家康討ち死に説
実はこのラスト、南宗寺(後述)に伝わる話は少し異なります。真田幸村に攻められた家康は切腹を覚悟し、徳川本陣から脱出して生き延びようと考えました。このままで討ち取られてしまうと考え、棺の中に隠れて大混乱から抜け出すことに。ところが、後藤又兵衛はこの棺をみて怪しみました。そして又兵衛はこの棺を槍で一突きしたといいます。


たしかに、戦場に棺で担がれているのをみたら怪しいよなー
家康は槍で突かれてしまい、瀕死の状態に。そして、この言い伝えが伝わる南宋寺で絶命してしまったといいます。
これをみた、徳川の家臣たちは大慌て。家康の死が諸大名に広まってしまうと、徳川方からは戦線を離脱する者もいるでしょうし、豊臣方は勢いをつけて必死の突撃することが予想されました。


終結に向かっていた戦国の世が再び盛り返してしまうやもしれんしのー
そこで、徳川家臣たちは家康の死を影武者によって隠したのです。つまり、家康の替え玉計画。この死を知っているのは家康の近臣のみとし、一連の悲劇の一切合切、すべてを秘密にして、このまま徳川家の世襲制を続けていこうと決断したといいます。


でもどうしてこんな説が?
大坂に徳川家康の墓!?
徳川家康討ち死に説は突拍子もない説のようにも思われるかもしれません。しかし、大阪府堺市には徳川家康のものと伝えられる墓が存在します。その墓があるのが、家康が果てたとされる南宗寺。


家康のお墓は日光東照宮だとおもっていたのに
南宋寺の住職・沢庵宗彭は家康の墓をこの地に建てました。そして、徳川家の家臣たちはこの和尚のことを厚く庇護したといいます。


幕府が大阪の僧を保護するのは確かに怪しい、、、


として知られている。(wikipedia)
まとめ
大坂の陣で徳川家康が討ち死にしていた説を紹介しました。この説の真偽は不明です。信じるか信じないかはあなた次第。


そもそも後藤又兵衛は前日に討ち死にしているはずだし、、、