太原雪斎は今川義元の軍師やな
雪斎殿も黒田官兵衛のように優れた軍師だったんじゃ
雪斎殿が亡くなってからの今川家は勢いをなくしたぞ
雪斎が生きていれば桶狭間の戦いで敗れなかったかもしれないもんな
それでは太原雪斎の生涯をみていこう!
太原雪斎の年表
雪斎の父は庵原城主で、横山城を拠点として海運を掌握していたみたい
どちらも今川家の譜代の家臣じゃ
太原雪斎の相関図
複雑な関東情勢をまとめ上げた雪斎の功績は大きいなー
同盟は様々な武将の思惑があって結ばれるんじゃ
雪斎はそれらを勘案した上で同盟を締結させたんじゃろな
太原雪斎の誕生
太原雪斎は1496年、今川家重臣・庵原政盛の子として誕生しました。生まれてすぐに出家して九英承菊と名乗り、臨済寺に入門しています。雪斎は幼い頃から英才の呼び声が高く、この噂を聞きつけた今川氏親は五男・芳菊丸の養育係としてスカウトしました。この芳菊丸こそ、のちの今川義元です。
雪斎は誘いを2回も断って3度目でようやく受け入れたみたい
軍師にはあるあるの三顧の礼やな
義元は五男だったため、家督を相続することはないと考えられて仏門に入っていました。義元にとって雪斎は師匠であり、どこへ行く時も行動を共にして京都の建仁寺で修行しました。
義元殿は仏門に入って、栴岳承芳と名乗っておったんじゃ
今川家の軍師へ!
義元が京都から帰った頃に、父・氏親は亡くなってしまいました。そして、後を継いだ兄・氏輝、彦五郎も立て続けに亡くなってしまいます。
兄の氏輝と彦五郎は同じ日に亡くなっているんだ
怪しすぎるから暗殺説が囁かれているよ
そのため、今川家の後継者は出家して僧になったものばかり。家督争いは避けられない状況となっていました。そこで、雪斎は正室の子である義元を擁立し、側室の子である兄・玄広恵探を押す一派と対立する花倉の乱が勃発。雪斎は北条家などの支援を取り付けてこの乱を終結させました。
雪斎殿は家督争いを勝利に導いたから
義元殿から重用されるようになったんじゃー
雪斎は今川家と武田家の関係を取り持つため、信玄の妹・定恵院を義元の正室とさせます。つまり、今川家と武田家に同盟関係を築いたのですが、武田家と仲が悪かった北条家の機嫌を損ねてしまいます。そして、北条家と合戦が起きてしまいますが、関東管領・上杉憲政の協力のもと北条家と和睦しています。
このころの関東地方では、今川家、北条家、武田家が勢力を奮っていたよ
また、今川家に従属していた松平広忠が尾張(愛知県)の織田信秀に攻め込まれると、雪斎は今川軍の大将となり、織田軍を撃ち破っています。さらに、織田信秀の子・織田信広を捕縛して織田家に奪われていた松平広忠の息子・竹千代と交換しました。この竹千代こそ後の徳川家康であり、雪斎は竹千代に教育しています。
家康殿の長い人質生活が始まるわけじゃな
空前絶後の三国同盟!!
今川家と武田家の架け橋となっていた義元の正室・定恵院が亡くなると、雪斎は同盟維持のために定恵院の娘・嶺松院を武田信玄の息子・武田義信に嫁がせます。さらに、武田信玄の娘・黄梅院が北条氏政に嫁ぎ、北条氏康の娘・瑞渓院が義元の息子・今川氏真に嫁いでいます。これにより、今川家、武田家、北条家の甲相駿三国同盟が成立しました。
雪斎は戦国時代の大物をまとめて同盟を結ばせたんかー
これはかなり大きな功績!
雪斎は外交だけでなく、内政でも手腕を振るいました。今川家の分国法を改正、寺社の整備を行いました。そして雪斎は60歳で亡くなりますが、その5年後、義元は桶狭間の戦いで織田信長に敗れて討ち死。こうして今川家は急速に弱体化してしまいます。
武田信玄の軍師・山本勘助は「今川家のことは、あの坊主(雪斎)がなくしてうまくいかん」といったみたい
まとめ
太原雪斎は今川義元の軍師として活躍し、関東の有力大名である武田信玄、北条氏康、今川義元を同盟に導きました。雪斎は今川家の全盛期を補佐しましたが、雪斎が亡くなると、今川家は急速に没落してしまいます。
雪斎が長生きしていれば、
桶狭間の戦いで今川義元は討ち取られずにすんだかもしれないなー