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[大河ドラマ・どうする家康]丹羽長秀(キャスト:福澤朗)はなぜ豊臣秀吉に味方したのか? 年表 子孫 末裔 家系図

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康」で登場する丹羽長秀

福澤朗さんが演じている織田信長宿老ですね

徳川家康
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丹羽長秀柴田勝家と関係が深かったんも関わらず

清州会議柴田勝家と対立したんじゃ

ひろ
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どうして丹羽長秀柴田勝家と対立して豊臣秀吉に味方したのでしょうか?

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丹羽長秀の年表

丹羽長秀の相関図・家系図

丹羽長秀の誕生

丹羽長秀(演 : 福澤朗)は1533年、尾張(愛知県)に丹羽長政の長男として生まれました。丹羽家は代々名門・斯波しばに仕えていましたが、丹羽長秀の父・丹羽長政のときから織田家に従うようになりました。丹羽長秀は15歳のときから織田信長(演 : 岡田准一)に仕えており、「長秀」の「」は信長から賜ったと言われています。

ひろ
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丹羽長秀織田信長からとても可愛がられていたそうで

長秀は友であり兄弟だ」と言われるほどの関係性だったそうです

徳川家康
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丹羽長秀と織田信長は1歳しか年齢が変わらなかったからのー

丹羽長秀は織田信長の宿老

丹羽長秀織田信長に仕え始めた頃、織田家ではお家騒動が勃発しました。多くの家臣が織田信長の弟・織田信行(織田信勝)に従う中、丹羽長秀は織田信長について家督争いを鎮めています

ひろ
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このとき、柴田勝家でさえも織田信長に対抗したと言われていますね

その後も、織田信長に従って桶狭間の戦い美濃攻め観音寺城の戦いで武功をあげました。これらの功績から織田家の重臣としての地位を確立し、柴田勝家(演 : 吉原光夫)に次ぐ織田家家臣の二番宿老となります。

ひろ
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丹羽長秀は合戦でも活躍し

鬼五郎左」として恐れられました

また丹羽長秀は内政面で特に活躍したことが有名です。織田信長の命令により、琵琶湖に大型船を造船したり、安土城の普請を指揮したり、信長が好きな茶釜の買い付けを行ったりと内政面の活躍が目立ちました。

そのため、丹羽長秀は「米五郎左」という愛称で親しまれるようになります。

徳川家康
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米五郎左」は、米のように毎日の生活に欠かせない家臣という意味じゃな

丹羽長秀は柴田勝家に対抗して豊臣秀吉に味方?

織田信長のもとで順調に出世していた丹羽長秀でしたが、人生を一変させる本能寺の変が勃発してしてしまいました。

この日、丹羽長秀は織田信長の三男・織田信孝(神戸信孝)とともに四国征伐に出陣していました。長秀は逆臣・明智光秀(演 : 酒向芳)を討つのに距離的に一番近い人物でした。しかし、丹羽長秀は毛利家との戦いを引き上げて、大急ぎで京都に向かってくる豊臣秀吉・羽柴秀吉(演 : ムロツヨシ)と合流してから山崎の戦い明智光秀を討つこととなりました

ひろ
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織田信孝丹羽長秀豊臣秀吉より早く明智光秀を討つことができたら

歴史は大きく変わっていたでしょうねー

徳川家康
徳川家康

情報が錯綜しておったし

兵の数が足らなかったのも原因じゃな

その後、織田家の次期当主を決める清州会議では、豊臣秀吉に引き込まれて秀吉に仕えることになります。賤ヶ岳の戦いではかつての友・柴田勝家に勝利し、越前(福井県)123万石の大名となりました。

ひろ
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丹羽長秀が柴田勝家ではなく豊臣秀吉についたのは

明智光秀を討伐して勢いが豊臣秀吉にあると判断したからでしょうね

徳川家康
徳川家康

丹羽長秀は賢い方じゃから

冷静に情勢を分析したのじゃろう

さすがの立ち回りじゃ

丹羽長秀の最期は寄生虫に侵される!?

ひろ
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丹羽長秀は清州会議賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉側についたけど、

柴田勝家に味方した織田信孝を自害に追い込んだことに対して

よく思っていなかったそうです

丹羽長秀織田政権を内政面から支えた武将でした。また合戦でも活躍し、織田家では柴田勝家に続く二番家老まで上り詰めています。ところが、本能寺の変が起きると人生は一変し、位の下であった豊臣秀吉に仕えることになりました。

そのため、丹羽長秀にはこんな逸話が残っています。

丹羽長秀は晩年、寄生虫による胃がんに侵されていました。そこで、自身の内臓を、割腹して自分の手でかきだして豊臣秀吉に送りつけたさせたといいます。本能寺の変以降、素直に豊臣秀吉に従っているようにみせて、実際には、腸は煮えくりかえっていたのかもしれません。

徳川家康
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織田家のほとんどの武将が、本心では豊臣秀吉殿に従うのが嫌じゃっただろう

わしもそうじゃが、、、

丹羽長秀の子孫・末裔

丹羽長秀には長男・丹羽長重次男・丹羽長正三男・藤堂高吉四男・蜂屋直政五男・丹羽長俊六男・丹羽長紹がいたと言われています。また娘は8人いたとされています。

長男・丹羽長重は丹羽長秀の死後に丹羽家の家督を相続しました。しかし、軍事違反があったとして、豊臣秀吉から領国の大半と丹羽長秀時代の家臣を召し上げられています。そのため、越前(福井県)、若狭(福井県)、加賀(石川県)123万石あったともされる領地から若狭15万石まで激減しています。

ひろ
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豊臣秀吉が織田政権の大名の力を削ぐために行った大胆な行動ですね、、、

その後、丹羽長重は関ヶ原の戦いで西軍で改易されてしまいます。その後、常陸国古渡(茨城県)1万石の大名へ返り咲くことに成功し、大坂の陣で功績を挙げたために陸奥白河藩(福島県)10万石にまで復活しています。

丹羽長重の子・丹羽光重の時に陸奥二本松藩(福島県)に転封され、以降、丹羽家は二本松藩主として明治を迎えました。

ひろ
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本家の男児は明治の頃に断絶してしまったそうです

次男・丹羽長正は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは西軍に与したために改易されています。その後は大坂城で豊臣秀頼のもとで仕えていましたが、大坂の陣を前に大坂を脱出しています。

三男・藤堂高吉は豊臣秀吉の弟・豊臣秀長の養子となりましたが、その後に豊臣秀長の家臣であった藤堂高虎の養子となりました。藤堂高吉は藤堂の分家・名張藤堂家の祖となり、明治時代を迎えました

四男・蜂屋直政は蜂屋頼隆の養子となりましたが早世しました。

五男・丹羽長俊の詳細はわかっていません。

六男・丹羽長紹幕府旗本として仕え、旗本として存続しました。

また、丹羽長秀の娘・定光院稲葉典通に嫁ぎ、その血筋が現在の皇室にも繋がっています。

ひろ
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丹羽長秀の子孫は現在まで続いているようですね

サッカー選手の丹羽大輝さんは丹羽長秀の子孫とも言われています

丹羽長秀の家紋

丹羽長秀の家紋は「丹羽直違紋と呼ばれる、2本の直線を交差させたような家紋です。「違い棒」、「二本箸打ち違い」とも言われています丹羽家のものは縦に長いのが特徴的です。

この家紋になった経緯として、丹羽長秀が合戦で用いた刀を拭いたときに付着した血の跡が家紋のように☓印となっていたことや、馬印として、竹に短冊16枚を付けていましたが、合戦後には☓印のように2枚だけ残っていたことに由来するとされています。

この家紋には家や城を守るという意味が込められており、波多野氏、河内氏、松田氏で用いられていました。しかし、江戸時代からあまり使用されておらず、丹羽氏以外ではあまり見られなくなったようです。

まとめ

丹羽長秀織田信長に仕えて、「米五郎左」と言われるほど織田家には欠かせない人物となりました。しかし、本能寺の変が起こると、盟友の柴田勝家と対立して豊臣秀吉に従っています。ここまでは丹羽長秀の眼力はさすがといえますが、賤ヶ岳の戦い以降は完全に豊臣秀吉に取り込まれています。そのせいで、跡継ぎの丹羽長重は思うように立ち回ることができずにいます。

ひろ
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丹羽長秀や他の織田家の重臣は

どうしたら本能寺の変後に勢力を保つことができたのでしょうか?

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