どうする家康を見逃した方はこちら

[大河ドラマ・どうする家康]岡部元信(田中美央)は織田信長から今川義元の首を受け取った!? 年表 子孫 相関図

大河ドラマ
ひろ
ひろ

大河ドラマ・どうする家康」で登場する岡部元信

田中美央さんが演じている今川の猛将ですね

徳川家康
徳川家康

岡部元信今川のあと武田に従って徳川を苦しめたんじゃ

ひろ
ひろ

岡部元信今川義元の首を織田信長から受けったと言われるほどの忠義者として有名ですね

一体どんな生涯を過ごしたんでしょうか?

スポンサーリンク

岡部元信の年表

岡部元信の相関図

岡部元信と今川義元

岡部元信(田中美央)は、今川家の重臣である岡部親綱の子として誕生しました。岡部親綱は今川義元(野村萬斎)の家督相続に重要な役割を果たしたことがあり、岡部元信自身も遠江(静岡県)や三河(愛知県)の平定に大いに功績を挙げた武将でした。第2次小豆坂の戦いでは筋馬鎧に猪の立物をつけて力戦し、安祥城の戦いでも戦功を挙げています。

徳川家康
徳川家康

安祥城の戦いは

わしが織田の人質から今川の人質に移るきっかけとなった戦じゃ

一時期、元信は知行を没収され、武田信玄(阿部寛)のもとに身を寄せたことがありました。この際に信玄から「」の偏諱を授かりました。通常、武田氏の偏諱による「」は名前の上部に置かれるのが常ですが、元信は「」の字を優先しました。これは、今川家臣であった彼が今川義元から下賜された「」の字を重視したからだと言われています。

ひろ
ひろ

岡部元信は今川家臣時代から武田と関係があったと考えられています

岡部元信と桶狭間の戦い

1560年、岡部元信は桶狭間の戦いにおいて織田信長(岡田准一)と激闘を繰り広げました。主君の今川義元が織田軍に討たれた後も、鳴海城を拠点に抵抗し続け、織田信長が送り込んだ部隊をことごとく撃退しました。

徳川家康
徳川家康

鳴海城は織田と今川との最前線の城じゃったから

岡部元信はなんとしてでも手柄を立てたかったんじゃろな

その勇猛さは今川義元の首と引き換えに開城を要求し、その忠義に感動した織田信長が今川義元の首級を丁重に棺に納め送り届けるという一幕も生み出しました。また岡部元信は武功がなければ帰還できないと考え、戦功を得るために刈谷城を攻撃し、水野信近水野信元の弟)を討ち取りました。これにより今川氏真(溝端淳平)から感状を贈られ、かつて没収された知行も還付されました

ひろ
ひろ

岡部元信の知行が取り上げられて理由についてはわかっていません、、、

岡部元信と武田

桶狭間の戦いの後も岡部元信は今川氏に仕え続けましたが、1568年に武田信玄駿河侵攻により今川氏真が駿府(静岡県)を追われると、岡部元信は当初主君の今川氏真と共に北条の元へと逃れました。しかし、その後、岡部元信は武田氏に降伏しています。

武田に降伏後の岡部元信は、駿河先方衆として仕えましたが、所領問題から一族の統率が困難であったと伝えられています。『甲陽軍鑑』では、岡部元信が動員できた騎数が10騎に過ぎず、駿河先方衆の中で最も少なかったとされています。しかし、今川時代からの武田信玄とのつながりや、岡部元信が海賊衆の統率に関与していたことから、武田家に重用されています。武田信玄死後、武田勝頼(眞栄田郷敦)によって今川義元の隠居屋敷への居住や息子を旗本への出仕が許可されるなどの優遇が行われました。

ひろ
ひろ

岡部元信は露骨に重用されていたようです

武田勝頼の代には武田氏が三河・遠江方面に攻勢をかけ、1574年に遠江高天神城を落としましたが、長篠の戦いでの大敗後、岡部元信は小山城を守り続け、徳川軍の攻撃を耐え抜きました。

その後も岡部元信は徳川家康の遠江侵攻を阻み続け、知行も大幅に増えました。また、海賊衆を統括していた土屋貞綱の死後、海賊衆の統括を引き継ぎました。これまでの武功と海賊衆の統括から、1579年には遠江方面の軍事指揮権を一任され、高天神城の城将に抜擢されました。譜代以外で一方面の軍事指揮権を持つのは真田と岡部元信だけでした。

ひろ
ひろ

武田はこれまで海にでたことがなかったので

岡部元信のような船を操れる武将を重用されたんでしょうね

岡部元信と高天神城

1580年、徳川家康は高天神城の攻略を再開し、「高天神六砦」など22の砦を建設、出入りを封鎖しました。岡部元信は武田勝頼に後詰を求めましたが、このとき武田勝頼は北条氏政と対峙し、織田・徳川軍と正面衝突を避けたため、援軍は送られませんでした。

岡部元信は武田領の滝堺城・小山城の引き渡しと引き換えに城兵の助命を求める書状を徳川家康に送りましたが、織田信長は岡部元信の降伏を拒否するよう命じました。これは武田勝頼が援軍を出陣させることでそれを迎撃し、援軍が送られず高天神城が見捨てられれば武田の威信が失墜すると見越したためでした。

徳川家康
徳川家康

武田勝頼が高天神城を救えなかったのは

同盟相手だった上杉謙信が亡くなり

上杉家中でお家騒動(御館の乱)が起きておったからなんじゃ

ひろ
ひろ

武田勝頼はどこまでも運がないですよねー

高天神城の兵糧が底を突くと、岡部元信は諸将を集め、「信玄公・勝頼公の恩義に報いるために打って出る」と覚悟を示しました。そして、最後の訣別の宴を開き、残った城兵とともに徳川軍の陣地に突撃。この突撃は大久保忠世や大須賀康高らが迎撃し、忠世の実弟・大久保忠教が最初の太刀をつけ、その後家臣の本多主水が岡部元信を討ち取りました。

岡部元信の死後、城兵730余人が討たれ、岡部元信の首級は安土城の信長の許に送られました。これにより、徳川家康が長年苦しめられてきた高天神城の攻防戦は幕を閉じ、武田に対する徳川の勝利が確定した瞬間でもありました。

ひろ
ひろ

高天神城は城兵全員が玉砕した壮絶な戦になったようです

岡部元信の子孫

岡部元信には2人の子・岡部真堯岡部元昌がいたと言われています。しかし、その詳細はわかっていません。さらに、岡部元信には3人の兄弟がいたとされ、岡部正綱岡部長秋岡部長教です。岡部正綱は岡部元信とともに行動しており、本能寺の変も生き延びています。その後は徳川家康の家臣となった穴山梅雪(田辺誠一)の部隊に配属されましたが、1583年にアルコール中毒で亡くなってしまいました。

ひろ
ひろ

徳川家康の腹心の平岩親吉と同格だったともいいます

岡部正綱の後は岡部長盛が後を継ぎました。岡部長盛は徳川家康に従って、小牧長久手の戦い大坂の陣で戦功を挙げたために、美濃大垣(岐阜県)5万石を与えられています。その後、岡部氏は和泉岸和田藩(大阪府)に転封され、岸和田藩主として13代存続し、幕末を迎えました。

ひろ
ひろ

岡部元信の弟の子孫は存続しているようですね

まとめ

岡部元信は今川義元の重臣として戦で武功を挙げていました。今川家が滅びると武田に仕えて、今川を裏切った徳川家康を苦しめ続けました。岡部元信は一度仕えた主君に忠誠を尽くし続けるために、忠義者といえるのではないでしょうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました