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[大河ドラマ・どうする家康]亀姫(當間あみ)はなぜ奥平信昌に嫁いだのか? 年表 子孫 相関図

ひろ
ひろ

大河ドラマ・どうする家康」で登場する亀姫

當間あみさんが演じている徳川家康の長女ですね

徳川家康
徳川家康

亀姫はわしと瀬名との子じゃ

瀬名に似て気が強いおなごじゃった

ひろ
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亀姫は江戸時代の初期にはかなりの発言力があったそうで

宇都宮城釣天井事件の黒幕とも言われていますね

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亀姫の年表

亀姫の相関図

亀姫と徳川家康

亀姫(當間あみ)は、1560年に駿府(静岡県)で生まれました。父親は松平元信(後の徳川家康(松本潤))、母親は瀬名築山殿(有村架純)。亀姫は長女として生まれ、同母兄に1歳違いの松平信康(細田佳奈多)がいます。

徳川家康は1549年から今川義元(野村萬斎)の人質となっていましたが、今川家は徳川家康をよく養育し、元服させました。また、今川家の有力重臣・関口親永(渡部篤郎)の娘である瀬名・築山殿を養女にし、1557年に家康に嫁がせました。このように人質でありながら厚遇を受けた徳川家康は、今川義元の期待に応えて初陣を果たし、戦功を挙げました。

徳川家康
徳川家康

初陣は寺部城の戦いじゃ

今川から織田に寝返ったものを攻めたんじゃ

しかし、1560年の桶狭間の戦いで今川義元は織田信長(岡田准一)の軍に討たれます。この出来事をきっかけに徳川家康は今川家から決別し、その同年に亀姫が誕生しました。

ひろ
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桶狭間の戦いのときはまだお腹の中にいましたね

亀姫と奥平信昌の結婚

1562年、亀姫は母・築山殿とともにの岡崎城へ移り住みます。徳川家康は今川家との関係を完全に断ち切り、織田信長と清洲同盟と呼ばれる軍事同盟を締結。今川義元から賜った「」の字を返し、「家康」に改名しました。

ひろ
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瀬名と松平信康、亀姫を救出するために奪還作戦を行っていましたね

1573年、徳川家康の脅威であった武田信玄(阿部寛)が死去。徳川と織田の連合軍は信濃伊那地方と東三河を結ぶ要衝である長篠城を落とします。その後、亀山城(作手城)を拠点にし、武田方だった奥平定能とその息子・奥平信昌(白洲迅)を誘い、長篠城主にすべく計画。その見返りに亀姫を信昌に嫁がせる約束をします。

武田信玄亡き後、奥平は武田が求心力を失っていたことから、徳川家康に寝返ることを決定。これは、家を存続させるための重要な手段でした。しかし、この寝返りは、奥平信昌が新妻のおふうや弟の千丸らを武田家に人質として出していたため、大きな痛手となりました。それでも、信昌は亀姫との婚約を条件に家康からの帰参要請を受け入れます。

ひろ
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裏切りの代償として妻と子どもは処刑されてしまったんです、、、

奥平信昌は長篠城に入り、武田軍からの攻撃に備えます。武田勝頼は、1575年に1万5千の大軍を長篠城に向けて送ります。その時、奥平信昌はわずか500の兵しか持たず、苦戦を強いられますが、必死に抗戦し、織田・徳川の援軍の到着まで持ちこたえ、武田軍を撃退することに成功。その後の長篠の戦いでも大勝します。

その大勲を認めた家康は、亀姫を信昌に嫁がせる約束を実行。1576年、亀姫17歳奥平信昌22歳のときに結婚が成立しました。この結婚によって、奥平家は徳川家とより一層の絆を持つこととなり、その存在をさらに強固にしました。

ひろ
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長篠の戦いの勝利の裏には戦国一有名な足軽・鳥居強右衛門の存在があったといいますね

亀姫は宇都宮釣天井事件の黒幕!?

1619年、徳川家康の孫である奥平忠昌下総古河藩(茨城県)に転封されました。この転封に不満を抱く人物が一人いました。それは亀姫、奥平忠昌の祖母であり、家康の娘でもありました。

亀姫の不満は、新たに宇都宮藩主となった本多正純に向けられていました。亀姫の1人娘、千姫の夫の父であった大久保忠隣本多正純によって失脚させられた過去があったためです。さらに、本多正純の知行が奥平のそれを大幅に上回る15万5,000石であったことも、亀姫の不満を増大させました。

ひろ
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奥平と大久保の関係は緊密だったそうです

その後、1622年に「宇都宮城釣天井事件」が発生。二代将軍・徳川秀忠宇都宮城に宿泊する予定だった際、本多正純が天井に仕掛けを施し暗殺を企てたという情報が伝わりました。徳川秀忠は宇都宮城に立ち寄ることなく江戸城へと帰還。結果、本多正純は配流刑となり、本多家は改易となりました。

この事件の舞台裏で亀姫が暗謀を巡らせていたとの説が存在します。亀姫が徳川秀忠に告げ口したとされており、その目的は孫の奥平忠昌を守り、領地を回復するためとされています。その結果、奥平忠昌は再び宇都宮藩へと戻ることができました

ひろ
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実際には本多正純が仕掛けを設けた証拠はなく、暗殺計画自体も存在しなかったと伝えられています。

その後、亀姫は1625年に66歳でその生涯を閉じました。真相は定かではないものの、亀姫が孫と領地を守るために策謀を巡らせたという説は、彼女の強い意志と決断力を物語っています。この事件は、戦国時代の女性が政治に深く関与し、その歴史に大きな影響を与えた一例とも言えるでしょう。

徳川家康
徳川家康

子のためなら手段を厭わないのが

瀬名とそっくりじゃな

まとめ

亀姫徳川家康とその正室・瀬名(築山殿)との間に生まれた子でした。母の築山殿は気の強い女性と言われており、亀姫もその血を色濃く受け継いだ箇所が見られます。

亀姫は奥平忠昌宇都宮から古河藩に国替えとなることを良しと思わなかったために、引っ越しの際に城内に残しておくべき、障子やふすま、畳、さらには庭の木までも、すべてもっていこうとしたといいます。しかし、その道中で、本多正純に呼び止められてしまったために、全てを返還することになりました。

ひろ