戦国武将たちは死の床に臥した際に
最期の言葉として辞世の句を遺したんです
辞世の句は武将たちの人生そのものを表した言葉じゃな
今回は戦国武将が遺した辞世の句を紹介していきます!!
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢
これは豊臣秀吉の辞世の句。現代語訳すると、「露のようにこの世に生まれ落ち、露のように儚く消えてしまうこの身。大坂で過ごした栄華の日々は夢のようだ」。天下人にまで上り詰めた男の辞世の句にしては、あまりにも人の世の儚さが滲み出ている。
秀吉はどうしてこんな歌を詠んだのだろう?
秀吉は百姓として生まれ、織田信長に出仕してからずっと出世を続けてきた。そして、本能寺の変で信長を失うも、明智光秀を倒し、さらに柴田勝家を討ち取った。天下人への階段を一歩一歩駆け上がるさなかの秀吉は、光のベールをまとうが如き神々しい姿だった。だからこそ、天下人にまで上り詰めたとき、秀吉には巨大な虚無感に苛まれたのではないだろうか。
秀吉の最期はさらに哀れだった。幼い豊臣秀頼をあろうことか徳川家康に託した。力のあるものが天下を握る。それが戦国の掟であり、秀吉ほど身にしみて知るものはいないはず。このような状況で秀吉はこの辞世の句を詠んだのであった。
秀吉の死後、すぐに関ヶ原が起こって徳川政権となったけど
雲の上から秀吉はどのように眺めていたんだろう?
先に行く あとに残るも 同じこと 連れてゆけぬを わかれぞと思う
これは徳川家康の辞世の句。現代語訳すると、「誰も道ずれにしようとは思わない。だれも後追いして、私のあとについてこようとしてはならない」という意味。戦国時代には主君の死に伴って、家臣もそれに続いて殉死することが美徳とされていた。ところが、徳川家康はそれを禁止している。
どうして家康は殉死を禁止したんだろう?
殉死は有能な家臣を無駄に失う行為であった。しかし、忠義や忠誠心が重んじられていた当時、家来の忠誠心は評価されて、相続人には褒美が与えられていた。そのため、褒美目当てに殉死するものもいたという。
ところが、家康は自分の後継者である徳川秀忠に仕えるべき有能な家臣の無駄死にを防ごうとした。また、家康は戦死した人たちに対する供養も欠かさない、心優しい人物だったという。晩年は戦死した兵士のために南無阿弥陀仏を写経し続けていた。
家康は家臣想いの優しい武将なのか
四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒
これは上杉謙信の辞世の句です。現代語訳すると、「49年のわたしの人生も眠っている間の夢のようだった。この世の栄華も一杯の酒と同じようなもの」となる。つまり、この世の栄華は一杯の酒と同じということ。
上杉謙信は酒豪だったから
辞世の句でも酒を取り入れたのかな
また、これは無常観に溢れた歌でもあるのー
もうひとつの上杉謙信の辞世の句を紹介。
極楽も地獄も先は有明の月のこころに懸る雲なし
「これから向かう先が極楽でも地獄でも構わない。心は有明の月のようにすっきりと晴れ晴れしている。」己の信じる道を真っ直ぐ生き抜く、上杉謙信らしさがあらわれた辞世の句。
戦国武将の中で唯一
「義」のために戦った武将だもんなー
大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流
これは武田信玄の辞世の句。現代語訳すると、「この世は世相に任せるもの。その中で自分を見出して死んでゆく。見せかけで生きてはならない。本音で生きるのが一番楽」。
信玄は武田家の将来を憂いて
死の床でこんな言葉も残しているんです
信玄は遺言として後継者の武田勝頼に対して次のように言った。「自身の死を3年の間は秘密とし、亡骸を諏訪湖に沈めること。」「上杉謙信を頼ること。」また、重臣の山縣昌景に対して、「源四郎(山縣昌景)、明日は瀬田(天下)に旗を立てよ」と言い残した。しかし、信玄の予想通り、武田家は10年後に滅亡してしまう。
カリスマ武田信玄亡き後は
内部分裂も起こして散々でしたね、、、
夏山の 茂みふきわけ もる月は 風のひまこそ 曇りなりけれ
これは今川義元の辞世の句。現代語訳すると、「夏山の茂みに月明かりが入ってくるが、風が止むと茂みに阻まれて見えなくなって寂しい」となる。京文化を取り入れた風流のある今川家を象徴した歌といえる。
義元は情景を詠むのが好きで
辞世の句でもそれを詠んだんですね
まとめ
5人の戦国武将の辞世の句を紹介した。それぞれの武将に個性があったのではないだろうか?ただ共通することは、死を前にすると人生の儚さを慮る武将がなんと多いこと。
天下を取っても死は怖いものなんですね