豊臣秀吉は大量の兵を率いて関東の覇者・北条を滅亡させようしたよね
その時に東北の伊達政宗に味方するように要求しておったが
政宗はなかなか従軍しなかったんじゃー
どうして
伊達政宗は豊臣秀吉にすぐ味方しなかったんだろうか?
豊臣秀吉の小田原征伐
小田原征伐は豊臣秀吉が行った天下統一のための最後の戦い。北条家は関東で5代100年続いた名門であり、秀吉は全勢力を率いて小田原城を包囲した。小田原城は武田信玄や上杉謙信に攻められても陥落しなかった強固な城ではあったが、豊臣秀吉の粘り強い兵糧攻めにより北条家は降伏した。こうして、秀吉は関東地方までも手中に収めた。
秀吉が次に狙ったのは、、、
北条家が陥落し、東北の大名たちは豊臣秀吉とどのように向き合うべきか選択を迫られた。ほとんどの大名が秀吉に従ったが、東北の雄・伊達政宗だけはずっと迷っていた。結果的に政宗は秀吉に従うのだが、なぜ政宗はこのときに迷っていたのかをいくつかの説とともに紹介していく!
政宗が豊臣秀吉に従うのを迷ってたのはどうして?
なぜ伊達政宗は遅刻したのか?
伊達政宗が豊臣秀吉に謁見するのに遅刻した理由を
いくつかあげていきます!
伊達政宗は北条に勝つチャンスがあると考えていた
伊達政宗は関東の覇者・北条であれば豊臣秀吉に勝利すると考えていた説。当時、伊達政宗は北条家と同盟関係にあった。これは常陸(茨城県)の大名・佐竹を警戒してできた同盟であった。相手を挟撃するための同盟は戦国時代にはよく結ばれており、珍しいものではなかったが、豊臣秀吉と相対したときにどうすべきか悩むことになった。
同盟関係を結んでいるため、北条に味方した方がよいが、北条が負ければ伊達も共に敗北してしまう。政宗としては共倒れは避けたかっただろう。もし、北条が絶対に負けると思っていれば、すぐに秀吉に従っただろう。しかし、ギリギリまで迷っているところを見ると、北条であれば秀吉にそう簡単に負けないと考えたのかもしれない。
北条は武田信玄や上杉謙信にも勝利してきた
強い大名だしねー
伊達政宗が豊臣派に同調したと思われたくなかった
伊達政宗は幼い頃に右眼を失ったために母親と不仲であり、弟の小次郎ばかりを溺愛していたという。そのため、母は政宗が豊臣秀吉に赴く直前に毒殺しようと計画したともいわれている。これはなかなか秀吉に従わない政宗に対して、伊達家存亡に危機感を抱いた母親が毒を仕込んだと言われている。
伊達家では政宗派と母親と小次郎派に分裂していたため、簡単に秀吉に従軍すれば小次郎派と同じ考えになってしまう。そのため、政宗はすぐに秀吉に従属するとはいえなかったのかもしれない。
政宗が小次郎派に同調してしまうとよくないから
政宗はすぐ行動に移せなかったのかな
伊達政宗は豊臣秀吉に勝てると思っていた
伊達政宗は東北地方の大名であったため、天下の豊臣軍を実際に目の当たりにすることはなかった。そのため、北条と組めば勝利できる考えていた説。
いくら豊臣秀吉が強いといっても、関東の覇者・北条と東北の雄・伊達が手を組めば、遠征軍の豊臣には勝利できるのではないかと考えたのかもしれません。
伊達も北条も100万石近い所領があったから
2つ合わせたら200万石もあるもんね
とはいえ、中央の兵士と東北の兵士を比べたら
一人一人の戦力では中央の兵士の方が強いと思うがな
まとめ
伊達政宗がなぜ豊臣秀吉にすぐ従わなかったのかを紹介した。小田原征伐の時、政宗はわずか23歳であったため、血気盛んで秀吉に従いたくなかったのではないかと考えている。
政宗は江戸時代になっても
天下を狙おうとしていたしな