蜂須賀小六は秀吉さんの家臣として活躍した武将やな!!
だけど、あまり評価されていないなー
小六は恩賞をあまり受け取ろうとせず
目立とうともしなかったからじゃなかろうか
生涯豊臣秀吉に尽くした武将ということだね
それじゃあ、蜂須賀小六の生涯をみていこう!!
蜂須賀小六の年表
小六は秀吉さんに出会うまでは斎藤道三に仕えたりと、
主君が定まっていなかったみたいやなー
戦国時代では主君を次々と変えることは一般的じゃったからなー
わしも信長公に出会うまでは、今川家に仕えておったんじゃ
蜂須賀小六の相関図
小六の息子家政は徳島城を築城した祝いとして「阿波おどり」を始めたというよ
家政は朝鮮出兵で失態を犯したから蟄居させたんじゃ
蜂須賀小六の誕生
蜂須賀小六は1526年、尾張(愛知県)に地侍の子として生まれ、本名は蜂須賀正勝といいます。小六の前半生はあまりわかっていませんが、主君を次々と変えていたといわれています。また斎藤道三につかえて斎藤家のお家騒動である長良川の戦いにも参加したようです。
さらに小六は夜盗の親分であったともいわています。そのときに木曽川流域で材木の運送業をしていたといいます。この辺りの話はよくわかっておらず、最終的に織田家の家督争いに参加した後に織田信長に仕えました。
小六の子孫が明治天皇に呼ばれて皇居にきたことがあって、子孫は待合室のテーブルに置かれたタバコを何気なくポケットにいれたそうなんだ
これをみた明治天皇は「血は争えんな」と言ったみたい
小六が夜盗であった話を覚えていたからだろうなー
秀吉のもとではたらく
信長に仕えた小六に接近したのが豊臣秀吉でした。秀吉の人柄にほれた小六は秀吉の寄騎となります。
2人が出会った時の話で有名な逸話が残っているよ
信長が美濃攻略のため、前線基地として墨俣城を築くよう秀吉に命令。墨俣城の築城を何度も挑戦しましたが、斎藤家に邪魔されて築城できていませんでした。そこで秀吉は木曽川で材木の運送業をしていた小六の経験を生かして、川を利用して築城する計画を立てます。小六は不眠不休の工事を行うことで墨俣城を見事に完成させました。
秀吉に尽くす生涯
本能寺の変が起きたとき、小六は秀吉に従って中国攻めに参戦していました。秀吉たちはすぐに京都に引き返すには毛利家と和睦する必要があります。
そこで小六は毛利家の外交僧安国時恵瓊と和睦を取り合い、見事成功。すぐに京都へ戻った秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を討ち取りました。その後も小六は自らの出世より、秀吉が天下を取ることを手助けするべく働きました。
小六にいくら恩賞を与えようとしても
小六は全然受け取らないんじゃ
四国平定後、秀吉は小六の誠実な働きに感謝して阿波(徳島県)17万石をあたえますが、すぐに息子家政に家督をゆずると大坂に移り住みました。それほど秀吉を支えたかったのでしょう。
秀吉さんは本当に人たらしなんだね
これほどまでに人を惹きつけらる人はなかなかいないよなー
まとめ
蜂須賀小六は豊臣秀吉の人柄にほれて、生涯秀吉を支え続けた武将でした。秀吉のもとで数々の合戦に参加し、活躍したため阿波17万石を賜りました。
小六はわしのためによう働いてくれたわい
歴史にはなかなかあらわれないが小六がいなかったら内政面が不安じゃわ