あまり知られていないけど三好長慶は織田信長より先に天下人となった武将だよね
長慶殿は畿内を中心に領土を拡大した武将じゃ
主家を追放したから下剋上武将であるといってもよいな
長慶も下剋上を成し遂げたんだね
それでは三好長慶がどんな生涯だったのかみてみよう!!
三好長慶の年表
晩年、弟や息子をたくさん失っているなー
このことで長慶殿は随分気が滅入ってしまって、
松永久秀に三好家を乗っ取られしまったんじゃろなー
三好長慶の相関図
長慶は父を自害に追い込んだ細川晴元を京都から追い出して、
父の仇をとったんやなー
それに畿内の諸大名を蹴散らしておるし
大したものじゃ
三好長慶の誕生
三好長慶は1522年、阿波(徳島県)に三好元長の長男として生まれました。長慶の父元長は主君の政敵であった細川高国を討ちましたが、管領細川晴元の策略により一向一揆に攻められて亡くなっています。そのため長慶は母とともに阿波に逃がれました。その2年後に晴元と和解すると細川家の家臣となりました。
三好家は細川家の家臣だったけど
長慶の父元長が力をつけすぎていて、力を恐れた晴元が元長を討ったんやなー
三好政権設立!!
晴元の策略により起こった一向一揆でしたが、一揆の勢いが止まらず晴元には止められなくなりました。そこで長慶は一揆の大元の本願寺証如と晴元を引き合わせて和睦させます。さらに一揆がおさまらないところは長慶が沈めていき、三好家は細川家で頭角を表し始めました。
長慶は領土問題で主君晴元と対立すると、晴元を討つため上洛を決意。結局、晴元と和睦したものの、細川家家臣の木沢長政や遊佐長教などを撃ち破り、勢力を拡大しました。
長慶は周囲の有力武将を討ち取ることで力をつけていったんやなー
長慶の力がどんどん拡大してくると、長慶は細川晴元、将軍足利義晴、義輝を京都から追放することに成功。これにより長慶は畿内を制圧して、畿内を中心に「10ヵ国」を支配する三好政権を設立を果たします。
長慶殿は知力にたけていて、
将軍さえも京都から追い出したんじゃ
長慶が強かったのは貿易の中心地堺をおさえていたからだというね
松永久秀に敗れる!!
長慶は再び将軍足利義輝と何度か小競り合いを続けるも、畿内の情勢が安定しないために義輝と晴元と和解。長慶は室町政権を乗っ取ったようなものでしたが、六角義賢、畠山高政が挙兵し攻め込んできます。これにより弟の三好義賢、十河一存を亡くしてしまい、長慶は大きく落ち込んでしまいます。
その後、長男義興までも亡くしてしまったためにかなり気落ちしていたときに、重臣の松永久秀に翻弄された挙げ句、三好家は乗っ取られてしまいました。
久秀に翻弄されて、
長慶殿は弟の安宅冬康を誅殺しておる
長慶は弟たちを失ったショックが大きすぎて
性格な判断ができなかったんやろなー
まとめ
三好長慶は下剋上により主君細川晴元にかわって室町幕府の実権を握りました。しかし晩年は思うように勢力を伸ばせず、重臣の松永久秀に三好家を乗っ取られ亡くなりました。
「下剋上で成り上がって下剋上により滅びる」
戦国を象徴する武将だね