[5分でわかる!]なぜ直江兼続は上杉景勝に忠義を尽くしたのか!?

戦国武将
ひろ
ひろ

直江兼続はやっぱり忠義の男で

兜に「」の字が入っているのが有名やな

豊臣秀吉
豊臣秀吉

わしも兼続には高い評価をしていたんじゃ

上杉家は兼続の存在なしには存続できなかったじゃろなー

ひろ
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兼続は大河ドラマにもなったことのある人気武将だ!

今回は直江兼続の生涯についてみていこう!!

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直江兼続の年表

豊臣秀吉
豊臣秀吉

兼続は優秀な武将でな

わしは「天下の仕置を任せられる」と評価したぞ

ひろ
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秀吉さんの遺留品である名刀「備前長船兼光」を賜ってるしなー

直江兼続。背が高く、容姿も良かったといわれる。(米沢市上杉博物館蔵)

直江兼続の相関図

ひろ
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石田三成と仲がいいのは

ともに「」を重んじたからやろなー

豊臣秀吉
豊臣秀吉

それに2人は同い年で、同じような境遇で育ったから共通点が多かったんじゃろ

上杉景勝。あまり感情を表にみせず、常に眉間に皺をよせていたため家臣も恐れた。(上杉神社蔵)

直江兼続の誕生

直江兼続なおえかねつぐは1560年、越後(新潟県)に長尾政景の家臣樋口兼豊ひぐちかねとよの長男として生まれました。長尾政景の息子は上杉景勝であり、兼続は幼い頃から景勝に仕えていたといいます。

直江信綱が亡くなり、直江家の跡取りがいなくなったことで、景勝の命で兼続は直江家の家督を継ぎました。

ひろ
ひろ

兼続と景勝は幼い頃ずっと一緒なんやな

戦国時代では主君を変えることは当たり前やったのに、兼続はずっと景勝に仕え続けたのはすごい

上杉謙信がなくなると、正式な跡取りが決まっていないため家督争いが勃発。謙信の甥の景勝と謙信に気に入られていた上杉景虎の間で御館おたての乱が起き、兼続は景勝に協力して勝利に貢献します。

そしてこの家督争い以降、兼続は景勝の右腕として活躍することになります。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

御館の乱は上杉家の中で最大の家督争いじゃった

武田家や北条家も巻き込んだしのー

上杉謙信。
子どもを作らず、後継者も決めず亡くなった。

(上杉神社蔵)

豊臣政権に接近

上杉家は御館の乱以降、国力が落ちてしまい滅亡の危機にさらされました。しかし、敵対していた織田信長本能寺の変で亡くなったため、上杉家はなんとか持ち堪えます。

そして景勝は豊臣秀吉と協力して織田家重臣の柴田勝家に攻め込み、上杉家と秀吉との間に関係を築きました。

また上杉家家臣の新発田重家は恩賞の少なさから景勝に不満を抱き、上杉家からの独立を宣言しました。そして東北地方の伊達政宗佐竹義重の力をかりて景勝に対抗。

ところが伊達政宗と佐竹義重が戦をはじめると、後ろ盾を失った重家は一気に弱体化し自害しました。これにより上杉家は越後を統一

さらに兼続は御館の乱などで疲弊した越後を生き返らせるために、新田開発や衣服の繊維の増産に力を入れました。また佐渡金山の管理をし、莫大な利益を得ます

豊臣秀吉
豊臣秀吉

兼続は本当に内政が上手いやつじゃった

国を治めるには領民の気持ちを大切にすることが大事じゃからな

景勝は豊臣秀吉のもとで小田原征伐に参加し、五大老に任命されました。

この裏には兼続の働きがあったといわれています。というのも兼続は秀吉から絶大な信頼を得ていました。また景勝が会津(福島県)120万石に移ると兼続には景勝とは別に米沢(山形県)6万石を与えたといいます。

ひろ
ひろ

実際には秀吉さんは米沢30万石を与えようとしたんだけど

景勝との関係を悪くしたくない」と断ったというで

とても忠義のあつい男だよな

兼続の兜。「愛」は軍神「愛染明王」に由来。
(金小札浅葱糸威二枚胴具足)

関ヶ原で家康と争う

天下人豊臣秀吉がなくなると徳川家康が天下統一へ動きはじめました。景勝が会津に新しい城を造り始めると、

家康が

上杉家には謀反の疑いがあるから上洛しにこい」と難癖をつけてきます。

これに対して景勝は上洛を拒否し、兼続は挑発的な書状である直江状を家康に送りつけました。

家康は直江状を読んで激怒し、上杉征伐するため会津に侵攻。またこの時、石田三成が家康へ戦を仕掛けたことで関ヶ原の戦いが勃発しました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

兼続は三成と共に家康を討つことを決意したそうじゃ

上杉家は直接関ヶ原の戦いには参加せず、「東北の関ヶ原」といわれた長谷堂城の戦い伊達政宗最上義光と合戦を繰り広げました。

この戦は激しいものとなりましたが、兼続の優れた采配によって損害を最小限に留めました。これには敵将である最上義光も称賛したといいます。

結局関ケ原の戦いで西軍は敗れてしまい、上杉家は米沢30万石の大名へ減封されてしまいました。ところが所領は4分の1となっても、上杉家は一人も家臣をリストラせずに大切にしたといいます。

ひろ
ひろ

兼続は民あっての領国だと考えていたみたいだしね

直江状。家康への挑発的な内容が記されている。
(新潟県立歴史博物館)

まとめ

直江兼続は生涯上杉景勝を支え続けた武将でした。そのため上杉家では上杉景勝のことを「お館様」、直江兼続のことを「旦那」と呼び、二頭政治が敷かれました。

また兼続がなくなったとき、景勝は大いに嘆き悲しんだといわれています。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

兼続と景勝の信頼関係は本物だったんじゃな

それに兼続の死には徳川秀忠も悲しんだというぞ

なかなかの凄腕武将じゃったな

長谷堂城の戦い。
上杉軍は関ケ原の戦いで西軍が敗北したことで撤退を余儀なくされる。
(長谷堂合戦図屏風)
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コメント

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