直江兼続はやっぱり忠義の男!!
兜に「愛」の字が入っているのが有名やな
わしも兼続には高い評価をしていたんじゃ
上杉家は兼続の存在なしには存続できんかったじゃろしー
兼続は大河ドラマにもなったことのある人気武将!
今回は直江兼続の生涯についてみていこう!!
直江兼続の年表
兼続は優秀な武将でな
わしは「天下の仕置を任せられる」と称賛したこともあるぞ
秀吉さんの遺留品である名刀「備前長船兼光」を賜ってるしなー
直江兼続の相関図
石田三成と仲がいいのは
ともに「義」を重んじたからだろうな
それに2人は同い年で
同じような境遇で育ったから共通点が多かったんじゃろ
直江兼続の誕生
直江兼続は1560年、越後(新潟県)に長尾政景の家臣・樋口兼豊の長男として生まれました。長尾政景の息子は上杉景勝であり、兼続は幼い頃から景勝に仕えていたといいます。
直江信綱が亡くなり直江家の跡取りがいなくなったため、景勝の命を受けて兼続は直江家の家督を継ぎました。
兼続と景勝は幼い頃ずっと一緒なんやな
戦国時代では主君を変えることは当たり前やったのに、兼続はずっと景勝に仕え続けたのはすごい
上杉謙信がなくなると、正式な跡取りが決まっていないため家督争いが勃発。謙信の甥の景勝と謙信に気に入られていた上杉景虎の間で御館の乱が起き、兼続は景勝に協力して勝利に貢献します。
そしてこの家督争い以降、兼続は景勝の右腕として活躍することになります。
御館の乱は上杉家の中で最大の家督争いじゃった
武田家や北条家も巻き込んだしのー
豊臣政権に接近
上杉家は御館の乱以降、国力が落ちてしまい滅亡の危機にさらされました。しかし、敵対していた織田信長が本能寺の変で亡くなったため、上杉家はなんとか持ち堪えます。
そして景勝は豊臣秀吉と協力して織田家重臣の柴田勝家に攻め込み、上杉家と秀吉との間に関係を築きました。
このころから、豊臣とのパイプがあったんだな
また上杉家家臣の新発田重家は恩賞の少なさから景勝に不満を抱き、上杉家からの独立を宣言しました。そして東北地方の伊達政宗や佐竹義重の力をかりて景勝に対抗。
ところが伊達政宗と佐竹義重が戦をはじめると、後ろ盾を失った重家は一気に弱体化し自害しました。これにより上杉家は越後を統一。
さらに兼続は御館の乱などで疲弊した越後を生き返らせるために、新田開発や衣服の繊維の増産に力を入れました。また佐渡金山の管理をし、莫大な利益を得ます。
兼続は本当に内政が上手いやつじゃった
国を治めるには領民の気持ちを大切にすることが大事じゃからな
景勝は豊臣秀吉のもとで小田原征伐に参加し、五大老に任命されました。
この裏には兼続の働きがあったといわれています。というのも兼続は秀吉から絶大な信頼を得ていました。また景勝が会津(福島県)120万石に移ると兼続には景勝とは別に米沢(山形県)6万石を与えたといいます。
実際には秀吉さんは米沢30万石を与えようとしたんだけど
「景勝との関係を悪くしたくない」と断ったというで
とても忠義のあつい男だよな
関ヶ原で家康と争う
天下人豊臣秀吉がなくなると徳川家康が天下統一へ動きはじめました。景勝が会津に新しい城を造り始めると、
家康が
「上杉家には謀反の疑いがあるから上洛しにこい」と難癖をつけてきます。
これに対して景勝は上洛を拒否し、兼続は挑発的な書状である直江状を家康に送りつけます。
家康は直江状を読んで激怒し、上杉征伐するため会津に侵攻。またこの時、石田三成が家康へ戦を仕掛けたことで関ヶ原の戦いが勃発しました。
兼続は三成と共に家康を討つことを決意したそうじゃ
上杉家は直接関ヶ原の戦いには参加せず、「東北の関ヶ原」といわれた長谷堂城の戦いで伊達政宗、最上義光と合戦を繰り広げました。
この戦は激しいものとなりましたが、兼続の優れた采配によって損害を最小限に留めました。これには敵将である最上義光も称賛したといいます。
結局関ケ原の戦いで西軍は敗れてしまい、上杉家は米沢30万石の大名へ減封されてしまいました。ところが所領は4分の1となっても、上杉家は一人も家臣をリストラせずに大切にしたといいます。
兼続は民あっての領国だと考えていたみたいだしね