細川家は足利将軍に仕えた名門家だよなー
細川幽斎は武将であると
同時に文化人としても名高い戦国武将なんじゃ
かなりすごい人物やったんやなー
それでは細川幽斎の生涯をみていこー!!
細川幽斎の年表
幽斎は将軍暗殺事件、本能寺の変、関ケ原の戦いと
数々の危機を乗り越えてきたんやなー
後陽成天皇は幽斎を亡くしてはならないと
幽斎を保護したんじゃ
細川幽斎の相関図
明智光秀と関係が深かったのに
光秀に味方せずに秀吉に従う判断ができたのは見事やな
そうじゃな
文化人として名高いが実は武将としても優れているんじゃ
細川幽斎の誕生
細川幽斎(藤孝)は1534年、山城(京都府)に三淵晴員の次男として生まれます。細川家は代々、室町幕府の重要な役職である管領に就ける家柄である名門家でした。
幽斎は5歳で将軍に謁見すると、13歳で元服し、20歳で細川家の家督を継ぎました。
幽斎は力が強く、教養もしっかり身についていて
それに家柄もいいエリートやなー
文武両道人生!!
エリート街道を突き進んでいた幽斎に1つ目のピンチが訪れます。主君である将軍・足利義輝が暗殺されてしまったため、その弟・足利義昭を興福寺から救出し、流浪生活に陥ってしまいました。
流浪中はあまりにお金がなくて、
照明用の油も買えないほどだったんじゃ、
かなりの転落ぶりじゃな
そこで幽斎は義昭を将軍にするため、織田信長に懇願。ところが、幽斎は信長の方が実力がありそうだと気づき、信長の家臣となります。
また、このときに幽斎は明智光秀と出会います。幽斎は光秀と仲が良く、息子の細川忠興は光秀の娘ガラシャと結婚しました。
幽斎は将軍家を裏切って信長殿に仕えたから
公家たちにいじめられたそうじゃ
ところが再び幽斎にピンチが訪れます。友人である明智光秀が本能寺の変を起こしました。幽斎は光秀から援軍の要請を何度も受けますが、幽斎はこれを拒否。幽斎は隠居し、家督を息子の忠興に譲りました。
仲がよかった幽斎ですら光秀に味方してくれなかったことをみると
光秀は突発的に本能寺の変を起こしたと思えるなー
関ヶ原の戦いでピンチに
天下人豊臣秀吉は幽斎の教養を高く買い、文化人として登用。御伽衆になり、秀吉の話相手として過ごしていました。
しかし、秀吉が亡くなると細川家は徳川家康に接近。豊臣を裏切ったことにより、生涯最大のピンチが訪れました。
関ヶ原の戦いの直前、居城の田辺城を守っていると、1万5千もの西軍に囲まれてしまいました。対する幽斎側の城兵はたった300。
ところが幽斎の戦意は高く、なんと3ヶ月ももちこたえます。
さらにこの戦いを知った後陽成天皇は
「幽斎の古今伝授古今和歌集に関する秘密の教えを絶やしてはならない」と
停戦命令を出し、幽斎を助けました。
幽斎は和歌や芸術に対する趣きが人一倍じゃったから
天皇をも動かしたんじゃろなー
戦国時代であっても
天皇の力は偉大なんやなー
まとめ
細川幽斎は将軍暗殺事件、本能寺の変、関ヶ原の戦いと3度にわたるピンチを乗り越えた武将。また文化人としても知られており、天皇が一目置くほどの才能をもっていました。
まさに「剣はペンよりも強し」やな