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徳川家康が次男・結城秀康を嫌ったわけとは?

戦国武将
ひろ
ひろ

結城秀康徳川家康の実の子なのに家康に嫌われていたんだよな

豊臣秀吉
豊臣秀吉

そのせいで弟の秀忠が征夷大将軍になってしもうたな

ひろ
ひろ

どうして家康は実子・秀康を嫌ったのかを見ていこう!

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結城秀康の年表

ひろ
ひろ

秀康の幼名は於義伊おぎいといって

ギギという魚に似ていたことから家康が名付けたみたい

織田信長
織田信長

わしも信忠には奇妙丸

信孝には三七と名付けたわ

結城秀康。体格が良く武勇抜群で、武将としての評価が高かった。(舜国洞授賛)

結城秀康の相関図

ひろ
ひろ

秀康は豊臣武将と仲が良くて

黒田官兵衛とは3日に1日は黒田屋敷で過ごしたというしなー

織田信長
織田信長

石田三成を襲撃から守ったときには刀をもらったんじゃ

その刀を「石田正宗」と名付けて、関ヶ原の戦い以降も所有し続けたそうじゃ

豊臣秀頼。秀康は秀頼のことを実の弟のようにかわいがり、「もし家康が秀頼を攻撃するときには、自分は秀頼を助けに大坂城へ入る」と言っている。(養源院蔵)

結城秀康の誕生

結城秀康ゆうきひでやすは1574年、遠江(静岡県)に徳川家康の次男として生まれました。家康の正室・築山殿は嫉妬深く、秀康の母・於万に強くあたっていました。そのせいで秀康は3歳になるまで家康との対面を果たせませんでした。

ひろ
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家康が冷遇した理由として、秀康は双子で生まれてきたとか、

秀康の顔が醜かったことが原因ともいわれているよ

徳川家康。秀康が生まれた頃は武田家との対立で忙しく、秀康と会えなかったという説もある。(大阪城天守閣蔵)

父からの冷遇

1579年、武田家との内通疑惑で兄・信康織田信長によって切腹させられました。これにより、徳川家の家督は次男の秀康にまわってくるかと思われました。しかし、小牧長久手の戦いで、家康は豊臣秀吉との和睦の条件に、秀康を人質として秀吉の養子に差し出します

ひろ
ひろ

秀吉の人質になったから「」の字が使われているのか

子どものいなかった秀吉は秀康のことをかなり可愛がっており、豊臣家の後継者にしようと考えていました。ところが、秀吉に実の子・鶴松ができると秀康は結城家へと養子に出されてしまいます。

織田信長
織田信長

結城家は関東の名門家じゃ

秀康はたらいましにされておるな

松平信康。秀康の兄。信康も家康から嫌われていたという。(勝蓮寺所蔵)

福井藩初代藩主!!

豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いが起こると、父・家康に従って東軍の武将として出陣。秀康は会津(福島県)の上杉景勝と戦うため、宇都宮城に留まり上杉軍の抑えを担当しました。このことを家康は高く評価しており、秀康に越前68万石を与えています。

織田信長
織田信長

家康も秀康の武功の面では認めておるんじゃな

家康が江戸幕府を開くと、秀康は福井藩の初代藩主となります。その2年後の1605年には、弟・徳川秀忠将軍職を引き継ぎ、秀康は将軍になることができませんでした。そこで、秀康は無念を晴らすため、伏見城に出雲阿国を呼んで派手にかぶき踊りを演じさせました。

ひろ
ひろ

関ヶ原の戦い後、家康が重臣たちにむかって「次の将軍は誰にすべきか」と訪ねると、

本多正信本多忠勝は「秀康が次期将軍にふさわしい」と支持したというよ

1604年には、家康から「松平」の姓を名乗ることを許されましたが、秀康は「結城」を名乗り続けました。そして梅毒を患い、わずか34歳で亡くなってしまいました。

織田信長
織田信長

秀康は徳川御三家とは別格の扱いを受けておって、

家康や秀忠は秀康に配慮しておったんじゃろな

ひろ
ひろ

秀康秀忠の行列が出会ってしまい、譲りあいになって

全く行列が進まなかったというよ

松平忠直。大坂の陣で真田幸村を討ち取った。(浄土寺蔵)

まとめ

結城秀康は合戦で武功を挙げ、武将として優れていたにも関わらず、父・徳川家康に嫌われてしまい2代目将軍となることができなかった人物です。

しかし、養父となった豊臣秀吉に可愛がられたことため、秀康は豊臣秀頼のことを弟のようにかわいがりました。そのため、亡くなる寸前には「徳川家から秀頼を助けられないこと」を無念に思いながら亡くなってしまいます。

ひろ
ひろ

もし秀康が長生きしていたら、

秀康は大坂の陣で豊臣方に味方したのかなー

御手杵の槍。秀康が使用した天下三名槍で、常人には振り回せないほど重たくて大きかったという。(結城市)