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剣豪・宮本武蔵の伝説は本当なのか?

戦国小話
ひろ
ひろ

宮本武蔵はかなり有名だけど

その正体はあまり知らないなー

織田信長
織田信長

佐々木小次郎との決闘が有名じゃが

それ以外はあまり知られておらんの

ひろ
ひろ

今回は剣豪・宮本武蔵の生涯をみていこう

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剣豪の始まり

宮本武蔵みやもとむさしは1584年、播磨(兵庫県)に新免無二しんめんむにの次男として誕生しました。父は十手使いの剣術家と有名で、幼い武蔵に厳しい修行をさせました。この時の修行があまりに厳しすぎたため、父を越える天下無双の剣術使いになることを目指します。

織田信長
織田信長

武蔵の出自についてははっきりとわかっておらず

新免無二は養父で、生まれは美作みまさかともいうぞ

武蔵が13歳となった時、播磨で1番強いといわれた有馬喜兵衛に決闘を申し込みます。正攻法では勝てないと考えた武蔵は相手と対峙するや否や、左手に持った薪で喜兵衛の手をたたき刀を落とさせます。その隙に武蔵が喜兵衛を切り裂いてしまいました。これをみたものからは「両手を使うなんて反則だ」と罵られ、強さを認めてもらえませんでした。

ひろ
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当時は二刀流の使い手などいなくて

全員両手で刀を持つのが当たり前だったから

武蔵の戦い方は斬新な発想だったよ

宮本武蔵。二刀を用いる二天一流の開祖。(島田美術館蔵)

巌流島の戦い!!

1600年、武蔵も天下分け目の関ヶ原の戦いに出陣し、父・新免無二が黒田家に仕官していたことから、黒田官兵衛のもとで東軍として九州で戦かったといわれています。

ひろ
ひろ

播磨出身だから宇喜多秀家に味方して西軍だったともいわれているよ

その後、武蔵は天下無双の剣豪となるため、京都で剣術の名門・吉岡一門を潰すこと決意。21歳のとき、武蔵は吉岡一門に対して道場破りを願い出ました。

織田信長
織田信長

吉岡一門は足利将軍家に剣術を教えていた超名門の道場じゃ

ひろ
ひろ

13代将軍足利義輝剣豪将軍として名高いよ

そして、武蔵は吉岡一門の清十郎と戦うことに。武蔵はわざと決闘の時刻に遅刻。清十郎が冷静さを失っている間に、武蔵が斬りかかり清十郎は倒れこんでしまいました。これを見ていた吉岡一門の門徒たちは怒り、武蔵を追いかけます。ところが武蔵は逃亡

ひろ
ひろ

武蔵せこいなー

このことに激怒した清十郎の弟は武蔵に果し状を出し決闘を挑みました。しかし、武蔵が簡単に刀を奪い取って、討ち取ってしまいました。

2人の門徒を倒された吉岡一門は武蔵を一乗寺下り松に呼び寄せました。今回は約束の時間よりも早くに到着して、待ち伏せ。しかし、吉岡一門は数百名でやってきたため、武蔵は筆頭格の源次郎を切り裂いて逃亡。逃げながら追ってきたものを1人ずつ倒して、吉岡一門の数百名全員を倒してしまいました。

ひろ
ひろ

武蔵一人で吉岡一門を倒した話だけど、流石に伝説だろうなー

その後も天下無双の剣豪を目指して、各地の名だたる剣豪を打ち倒していきます。そして、佐々木小次郎の名を耳にします。小次郎は豊前小倉細川藩(福岡県)の指南役として過ごしていました。29歳となった武蔵は巌流島で小次郎と決闘を行いました。小次郎は通常より長い剣を使い、燕返しという技を身につけていました。

織田信長
織田信長

小次郎は武蔵と同じで無敗の剣士じゃった

小次郎との決闘に武蔵はわざと遅れてゆき、小次郎をイライラさせます。さらに小次郎に対して挑発。武蔵は冷静さを欠いた小次郎の頭を一斬りひときりして、勝利しました。

ひろ
ひろ

この巌流島の戦いはフィクションともいわれているよ

巌流島の戦い。正式名称は舟島。決闘を見ていた人が巌流島と名付けた。(wikipedia)

天下無双になるも、、、

31歳となった武蔵はお武家に仕官しようとします。ところが、武蔵は天下無双の剣豪であることを鼻にかけて、3000石の報酬を要求したため、10年間も職が見つからないまま各地を放浪することに。

ひろ
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3000石は5千万から1億円の価値がある

その後も、「勝つことにこだわり抜く性格が問題あり」とされ、仕官することができずにいました。そこで43歳となった武蔵は養子をとり、伊織いおりと名付けます。武蔵はこれからの時代は剣術ではなく、学問が大事だと考えて伊織にたくさん学ばさせます。伊織は大変優秀で、20歳にして小倉藩(福岡県)の重臣にまでのぼりつめました。

ひろ
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伊織は武蔵の兄の子といわれているよ

その後、57歳で熊本藩の細川忠利に仕官して、水墨画を書くなど悠々自適な暮らしをして過ごします。その後60歳で奥義をまとめた「五輪書を書き上げて、62歳で亡くなってしまいました。

織田信長
織田信長

54歳の時に島原の乱に出陣したが

何の成果も上げられず、足を負傷しておわったぞ

島原の乱。武蔵はこの戦い以来、剣豪人生をやめる。(秋月郷土史館蔵)

まとめ

宮本武蔵60戦無敗という天下無双の剣豪として有名であり、二刀流の名人でもあります。しかし、武蔵の戦い方は当時の武士道に反するあまりにも卑怯な戦い方でした。そのため、宮本武蔵の名を全国に知らしめることはできましたが、仕官先は10年も定まらないという残念な生涯を送ることとなってしまいました。

ひろ
ひろ

今回紹介した武蔵の戦い方には作り話も混ざっているよ

宮本武蔵。熊本藩にいるころ、藩士はこぞって武蔵門下に入ったという。(wikipedia)

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