宇喜多秀家は八丈島で半世紀過ごして、
84歳で大往生を遂げた武将やな
秀家は豊臣政権下で五大老までのぼりつめたんじゃが、
関ケ原の戦いで敗戦したのが運のつきじゃな
26歳で五大老ってエリートだよなー
イケメン武将宇喜多秀家の生涯をみていこう!
宇喜多秀家の年表
人生のほとんどを八丈島で暮らしたんやなー
島流しの刑期が終わっても八丈島に残ることに決めたそうじゃ
よほど気候がよかったんじゃろなー
宇喜多直家の相関図
秀吉さんと、利家と関係があったんやなー
それに秀家は三成とも仲良うやってくれて助かったわい
宇喜多秀家の誕生
宇喜多秀家は1572年、備前(岡山県)に宇喜多直家の次男に生まれました。
秀家が幼い頃、父直家は主君浦上宗景と対立するようになります。そこで中国地方の覇者毛利元就と手を組んで主君を追放しに成功しました。その後、勢力を拡大してきた織田信長に仕えます。
秀家は下剋上を成し遂げた父のもとで育ったんやな
ところが直家は秀家がまだ幼いうちに亡くなってしまいました。そこで幼い秀家は、秀吉を頼って家督を継ぐことに成功します。
わずか10歳で家督を継いだんじゃ
五大老に就任!!
家督を継いだ秀家は、秀吉のもとで備中高松城の戦いに参加し、備前(岡山県)を中心に57万石の大名となりました。
また秀吉にすすめられて前田利家の娘豪姫と結婚したり、秀吉から「秀」の字をもらったりと、秀吉からかなり気に入られていました。
わしは秀家を豊臣の一族のようにあつかったんじゃ
そして秀吉の下で四国攻め、九州攻めや朝鮮出兵などに参加したことから、五大老までのぼりつめます。
さらに領土内の整備にも力を入れて、岡山城を改修したり、商工業者を城下町に呼び込んだりと、岡山発展に力を尽くしました。
五大老って
徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家
と有力武将ばかりだよなー
八丈島に島流し!?
豊臣政権下で順調に出世していた秀家でしたが、エリートであることに鼻にかけてしまい、徐々に家臣が離反してしまいました。さらに秀家はかなりの派手好きで、お金を湯水の如くつかったり、妻豪姫が信仰するキリスト教を保護する一方で日蓮宗を弾圧したりしました。
このことで家臣が反乱を起こし、お家騒動に発展。これによって宇喜多家の軍事力や政治力は衰退してしまいます。
秀家は本当に派手好きで、刀は金ピカだったんじゃ
石田三成が加藤清正や福島正則らに襲撃される事件のとき、騒動を仲裁することで豊臣政権下で影響力を取り戻します。そして関ケ原の戦いで西軍の副大将をつとめますが、敗れてしまいました。
関ケ原の戦いのとき、
小早川秀秋の裏切りを知ると「秀秋を叩き斬る!」と叫んだそうだよ
秀家は島津家に逃げ込みますが、結局徳川家の追ってに見つかって捕まってしまいました。前田利常や豪姫の助命運動により、なんとか死罪は免れたものの八丈島に島流しにされます。秀家は名前を「浮田」、号を「久福」と改めて、残りの人生約半世紀を八丈島で過ごしました。
島では前田家の援助をもらいながら生活していたみたい
まとめ
宇喜多秀家は若くして五大老にまでのぼりつめた武将でした。ところが出世が早すぎて性格が驕慢になってしまったため、家臣の反乱に遭い関ケ原の戦いで敗戦してしまいます。
敗戦後は島流しにされ、半世紀以上を八丈島で過ごしました。
島で秀家は釣り好きやったらしい