石川五右衛門は戦国時代に現れた盗賊やなー
金持ちから盗みを働く義賊で、庶民に人気が高かったとか
五右衛門はわしの時代に
京都や大坂で大暴れしておったから釜茹でにしたんじゃ
釜茹でって恐ろしいなー
五右衛門はどうして処刑されることになったのかみてみようー
石川五右衛門の生涯
石川五右衛門の生年や出自については一切わかっていません。伝えられている話では幼い頃から非行を繰り返しており、盗賊の首長になったと言われています。
五右衛門の実在自体が疑問視されていたけど
近年、宣教師の日記の中に五右衛門に関する記述が見つかったそうやで
五右衛門は盗賊として京都や大坂を中心に盗みを働きました。盗みに入る相手は豪族や豪商などの権力者であったことからいつしか庶民の間では英雄的な存在となります。
ところが時の権力者豊臣秀吉の家臣・前田玄以によって捕まえられ、一族もろとも三条河原で処刑されてしまいました。
戦国時代では多くの処刑が京都の三条河原で行われておる
古来、川は不吉な場所とされていたんじゃ
現在に残る様々な伝説
五右衛門は忍者だった!?
五右衛門は14歳か15歳くらいの時に両親を亡くし、伊賀(三重県)で忍者になったと伝えられています。その際百地三太夫のもとで伊賀流忍術を学びましたが、三太夫の妻と密通し、妾を殺害して一緒に駆け落ちしたという伝説が残っています。
百地三太夫は織田信長の伊賀攻めで亡くなったという説もあるで
五右衛門は武士の生まれなのか!?
丹後(京都府)の武将石川家の出自とする説があり、一色義定の家老の家柄でした。豊臣秀吉の軍が丹後に侵攻した際、石川秀門は討たれたといいます。
その石川秀門の次男・五良右衛門がなんとか生き延びて、石川五右衛門になったともいわれています。
また五右衛門は大坂や京都で悪事を繰り返しており、京都にある秀吉の伏見城でも盗みを働こうとしました。ところが、秀吉の寝床に入ったところで取り押さえられてしまいます。
一説には伏見城に入ったのは盗みのためではなく、秀吉暗殺のためであったともいわれています。
このころ豊臣政権は民衆からの人気が薄かった
じゃから、民衆から人気のある五右衛門を取り押さえておきたかったんじゃ
渾身の辞世の句!!
五右衛門の辞世の句は有名で
石川や、浜の真砂は尽くるとも 世に盗人の種は尽くまじ
と詠みました。
これは
「私、石川五右衛門がこの世からいなくなっても、泥棒はこの世からいなくならない」
というかなり悪態のすぎる歌で最後の最後まで権力者に反発する五右衛門が伺えます。
この歌から五右衛門は本当に盗みをしていたんやろなー
極刑!!釜茹での刑
五右衛門といえば釜茹の刑に処されたことで有名です。
豊臣秀吉に捕まった五右衛門は市中引き回しのあと、三条河原で子どもとともに処刑されました。子どもと一緒に処刑されることになっていましたが、高温の釜の中で自分が息を引くまで子どもを持ち上げていたことが有名です。
しかし、子どもが苦しまないように先に沈めた説や、あまりの熱さに子どもを下敷きにしたともいわれています。
またお湯で茹でられたのではなく、油で揚げられたという説や、煎られたという説もあります。
五右衛門風呂は板を敷いて入るから、
子どもを下敷きにしたのかもなー
まとめ
石川五右衛門は天下の大泥棒として有名です。しかしその多くは江戸時代に考えられたもので伝説の域を超えません。
ただ宣教師たちの記述から五右衛門は実在して、釜茹でにされたのは本当のようです。
ルパン三世に登場する五右衛門は「石川五ェ門」と書くで
五右衛門風呂は釜茹での刑に由来して名付けられたんじゃ