北条早雲といえば下剋上の代名詞ともいえる戦国武将やな
それに早雲殿は50歳を越えてから武将人生がスタートしたといってもよい
大器晩成型の武将なんじゃ
そんなに歳いってから武将人生をはじめたのか!!
早雲の生涯はなぞにつつまれているところが多いけど、生涯をみていこう!!
北条早雲の年表
北条早雲の前半生は全然わかっていないのか
年をとってから活躍した武将なんやな
早雲殿ははじめて検地を行った武将として有名じゃよ
北条早雲の相関図
北条早雲の誕生
北条早雲の出生についてはさまざまな説があります。
これまでの研究では一介の浪人生まれで、実力によって下剋上を果たし戦国大名になったとされていました。
しかし、最近の研究では室町幕府の要職を務める名門伊勢氏の生まれではないかと言われています。
はっきりしているのは、北条早雲という名前はのちの人がつけた名前で、早雲は一度も北条早雲とは名乗っていないことです。
早雲は自信を伊勢新九郎盛時と名乗りました。出家してからは伊勢宗瑞または、早雲庵宗瑞と名乗ったと言われています。
北条という名は早雲の息子氏綱のときに、鎌倉の執権北条氏にならって名乗りました。
自分では一度も北条早雲とは名乗っていないんやなー
氏綱が北条家と名乗ったのはナイスやな!
これぞ下剋上!!
諸説ありますが今回は早雲は幕府の役人生まれであったとして生涯をみていきます。
早雲が30歳くらいのときに応仁の乱が起き、京都が焼け野原になったのを目撃しました。これにより早雲は中央政界での出世はあきらめたと考えられます。
そこで早雲は未だ手つかずの関東地方に目を向け、妹を今川家に嫁がせて、今川家に乗り込みます。
早雲が今川家に乗り込んだときは、今川家は家督争いのまっただなかでありました。そこで甥の今川氏親を立てて、争いを収めます。これにより早雲は今川家の守護代格となりました。
なお早雲がたてた今川氏親の息子は織田信長によって討たれた今川義元です。
こうして見ると歴史はつながっているのを感じるのー
このつながりこそ歴史を面白くするんじゃ
関東地方を制圧していく
早雲が還暦を迎えた頃、早雲は今川家の兵を借りて伊豆の堀越御所の足利茶々丸へ襲撃しました。これこそが有名な伊豆討ちです。
一介の武将が国を奪ったのは早雲がはじめだったので、早雲が下剋上の代名詞となりました。
ここから関東でも戦が始まるようになるんじゃ
この戦いがあったから早雲は下剋上武将といわれるようになったのかー
にしても足利茶々丸はまだ子どもだったのにな
実力のないもの消えていく戦国の厳しい世の中やなー
さらに伊豆討ちの二年後、早雲は小田原城城主であった大森藤頼に献上品などを差し出して安心させると、箱根の山の中から一気に攻め込んみました。このときに大軍と錯覚させるために、牛の角に松明をとりつけて小田原城に突入しました。
こうして早雲は小田原城を奪い取り、以来100年続く北条家の居城とします。その後相模の大名三浦家を滅ぼし相模を平定したのでした。この時なんと80歳をこえていたといいます。
勝つためなら手段を選ばないのが下剋上武将らしいのー
まとめ
北条早雲は下剋上に生きた戦国武将でした。また政治にも力をいれ、農民の年貢を軽くして農民から慕われていました。
ところが、城内では水の無駄遣いを取り締まるなど倹約を徹底しており、早寝早起きの徹底した生活であったといいます。これこそが長生きの秘訣なのでしょうか。
早雲には有名な話があって
早雲が相模を平定したころ
馬を盗んだ泥棒を自ら問い詰めたところ
「手前は馬一頭盗んだだけですが、あなたは国を盗みになられた」
といわれ
早雲は大笑いして馬泥棒を許したんやって