
「大河ドラマ・どうする家康」で登場する大谷吉継は
忍成修吾さんが演じている石田三成の盟友ですね

豊臣秀吉が「1度は100万石の兵を任せたかった」といったほどの軍師じゃ

それほどの軍師なのに大谷吉継が嫌われ者の石田三成と仲がよかったなぜでしょうか?
大谷吉継の年表
年表 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1559 | 1 | 近江で生まれる |
?? | ?? | 大友氏の家臣? |
?? | ?? | 豊臣秀吉の小姓となる |
1577 | 19 | 織田信長の命により毛利攻めに出陣する |
1582 | 24 | 備中高松城の水攻めに出陣する |
1583 | 25 | 賤ヶ岳の戦い |
1585 | 27 | 紀州征伐で功績をあげて「刑部」の官位を得る |
1586 | 28 | 九州攻めで石田三成の配下となる |
1589 | 29 | 越前敦賀2万石を拝領する |
1590 | 30 | 小田原征伐に出陣する |
1592 | 32 | 文禄の役 |
1593 | 33 | 明の使者と和睦交渉をする |
1597 | 38 | 慶長の役 |
1598 | 39 | 豊臣秀吉が亡くなる |
1600 | 41 | 関ヶ原の戦いに敗れ自害する |
大谷吉継の家系図


大谷吉継は大友氏の家臣の子だった?
大谷吉継(演 : 忍成修吾)は、従来、1599年に大友氏の家臣・大谷盛治の子とされてきました。しかし、近年の研究により、大谷吉継は1565年に近江(滋賀県)で六角氏の家臣・大谷吉房の子であったとの説が浮上しています。


大谷吉継の母・東殿は北政所の母・朝日殿の縁者で
北政所に仕えていたようです


大谷吉継の「吉」は豊臣秀吉から賜ったとも言われておるぞ
大谷吉継は豊臣秀吉の元で異例の出世
1575年頃、大谷吉継は豊臣秀吉(演 : ムロツヨシ)のもとで仕事を始めました。1577年、織田信長(演 : 岡田准一)の命令で豊臣秀吉が毛利軍を攻撃するために出陣した際、大谷吉継もこれに従軍しました。


このとき、加藤清正や福島正則、脇坂安治などの武将も豊臣秀吉に同行していました
1582年、織田信長が本能寺の変で命を落とした後、主君である豊臣秀吉は柴田勝家(演 : 吉原光夫)と対立し、それが賤ヶ岳の戦いとして激化しました。この時、大谷吉継は長浜城主・柴田勝豊を取り込む策略に出て、味方側に引き入れることに成功しました。


賤ヶ岳の戦いは七本槍も有名ですが
大谷吉継も活躍していたんですね
1585年の紀州征伐において、増田長盛(演 : 隈部洋平)とともに2000の兵を率いて出陣し、敵方の杉本荒法師を一突きにして討ち取る武功を挙げました。この功績により、大谷吉継は「従五位下刑部少輔」に任じられました。


この頃から「大谷刑部」と呼ばれるようになりました
大谷吉継はハンセン病にかかる
大谷吉継はハンセン病(らい病)を患い、そのため容貌が変わったと言われています。当時、ハンセン病は仏教的な観点から忌み嫌われていたため、大坂での「辻切り事件」が発生した際、大谷吉継は犯人として疑われることとなりました。


ハンセン病患者は近年まで忌み嫌われていました
大谷吉継はその変わった容貌を隠すため、「白頭巾」を被った姿で描かれることが多いですが、これは江戸時代中期の軍記物によって伝えられたイメージのようです。
石田三成との友情
大谷吉継と石田三成(演 : 中村七之助)は深い仲であったとされています。大坂城で豊臣秀吉が開いた茶会において、豊臣の武将たちが茶を楽しんでいた際、難病により顔の膿が茶碗に落ちてしまいました。その茶を飲むことを周りの武将たちは避けましたが、石田三成だけがその茶を飲み干し、さらにおかわりまで要求したと伝えられています。


大谷吉継と石田三成は同じ近江の生まれで年も1つしか変わらんな
この出来事をきっかけに、大谷吉継は石田三成に深い恩義を感じ、関ヶ原の戦いでも彼と共に戦う決意をしたと考えられています。


大谷吉継と石田三成は衆道関係にあったのではないかとも言われいます
大谷吉継は小早川秀秋を呪った!?最後は?
1599年、徳川家康と前田利家の関係が険悪となり、家康の暗殺の危機が迫った時、大谷吉継は石田三成とともに徳川邸を防衛しました。その後、徳川家康が上杉領の会津への侵攻を開始すると、石田三成は大谷吉継に挙兵の協力を要請しました。しかし、大谷吉継は家康とも親交が深かったため、3度にわたり「その行動は無謀だ。三成には勝機がない。」と忠告したとされます。


大谷吉継と徳川家康が懇意だったのは意外ですよね
徳川家康は豊臣恩顧の大名を抱き込むのが上手ですよね
しかし、石田三成の意志が堅かったため、大谷吉継はともに戦うことを了承し、「お主(石田三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願う者すら内府(徳川家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立て、お主は影に徹せよ」と説得したといいます。


大谷吉継は三成の立場をしっかり理解していて
有能な軍師ですね


大谷吉継は石田三成と共に関ヶ原の戦いを迎えました。小早川秀秋の可能な裏切りを予測し、その近くに陣を敷きました。その予想どおり、小早川秀秋は裏切りましたが、周囲の武将もこれに呼応し、西軍を裏切った結果、大谷吉継は窮地に追い込まれ、自害しました。
自害する直前、大谷吉継は「必ず3年のうちに祟ってやる」と小早川の陣に叫んだと言われています。その言葉の通りか、小早川秀秋は関ヶ原の戦いから2年後、21歳で病死しました。


病が侵攻していたため
大谷吉継は馬ではなく戸板に乗って出陣していました
大谷吉継の家紋


大谷吉継の有名な家紋は2つあります
対い蝶


大谷吉継はこの家紋を「従五位下刑部少輔」に任じられた1585年頃から使用しています。関ヶ原の戦いでも家紋を使用して出陣しました。


この家紋は平氏の者が使っていたようです
大谷吉継も桓武平氏の末裔とも言われています
鷹の羽


「鷹の羽」は藤紋、桐紋、片喰紋、木瓜紋に並ぶ「五大紋」の1つに数えられるほど非常に多くの武将に使われてきた家紋です。鷹の羽には「勇敢」という意味が込められているようです。
大谷吉継はこの家紋を対い蝶を使用するようになるまで、使用していました。


江戸時代にはこの家紋を
120以上もの武将が使用していたようです
大谷吉継の城


1589年、大谷吉継は越前敦賀2万石を拝領し、敦賀城の城主となりました。1600年の関ヶ原の戦いで敗北するまで、彼は城主として城の改築などを行いました。敦賀城は日本海に面しており、海上交易の要衝としての位置を持っていました。このことから、豊臣秀吉が大谷吉継をどれほど信頼していたかが伺えます。


関ヶ原の戦い後、福井藩の結城秀康が城代となりましたが
一国一城令により廃城となりました
大谷吉継の子孫
大谷吉継には2男1女の子供がいたと言われていますが、直系の子孫は現在には続いていないとされています。
大谷吉治
大谷吉治は関ヶ原の戦いの後、浪人となりました。その後の大坂の陣では豊臣方につき、義弟である真田信繁(真田幸村)とともに徳川方と戦いましたが、松平忠直の部下に討ち取られたと言われています。


松平忠直は大谷吉継と同じ福井藩の人ですね、、、
木下頼継
木下頼継は大谷吉継の次男であり、豊臣秀吉の寵愛を受けていたことから、木下という姓を名乗ることが許されました。関ヶ原の戦いで彼は戦死したと伝えられています。
竹林院
大谷吉継の妹とも言われており、真田信繁(真田幸村)に嫁ぎました。関ヶ原の戦い後、夫・真田信繁とともに九度山に入り、大坂の陣後は京都で隠居生活を送りました。


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