有馬晴信は佐賀の大名龍造寺家に反発していた武将やな
最終的に晴信は島津家と協力して龍造寺家を追い詰めまたんじゃよ
それにキリシタンとなりイエズス会に接近しておったわい
九州の大名はイエズス会と協力していることが多いなー
それでは有馬晴信の生涯をみていこう!!
有馬晴信の年表
九州では島津、大友、龍造寺の三大名がいる中
勢力を保てたのはすごいなー
やはり、南蛮貿易で富を得ていたからじゃろなー
有馬晴信の相関図
九州の諸大名は島津家に攻め込まれると、
豊臣秀吉に頼っているよなー
島津家は秀吉殿が九州征伐を行う前に
九州を統一するほど強大な勢力じゃったからのー
有馬晴信の誕生
有馬晴信は1567年、肥前(長崎県)に有馬義貞の次男に生まれました。晴信は次男であったために家督を継ぐ予定ではありませんでしたが、兄が若くして亡くなったためわずか4歳で家督を継ぎます。
また1580年に洗礼を受けキリシタンになります。というのも晴信には、
「キリシタンになれば南蛮貿易によって大量の富を得ることができる」という狙いがあったからです。
最初こそ晴信は儲けるために入信したんじゃが
次第にキリスト教に魅せられていったようじゃ
キリシタンとして
晴信が生まれた頃の肥前では龍造寺隆信が勢力を奮っており、晴信はこれに苦しめられていました。そこで勢力を拡大していた島津家と協力して沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち破り、島原半島を統一します。
また晴信は同じキリシタン大名の大村純忠や大友宗麟と協力して天正遣欧少年使節をローマに派遣して、グーテンベルグ(ドイツ)から活版印刷を持ち変えられせました。
この頃から晴信はキリスト教への信仰心が強まっていくんやな
九州では島津家が徐々に勢力を拡大しており、晴信は島津家との対立を避けられませんでした。そこで同じキリシタン大名の小西行長を頼って、豊臣秀吉のもとで九州征伐に参戦します。
最初は島津家と協力しておったが
結局、島津と対立してしもうたんじゃな
詐欺にあってしまう!?
ところが、豊臣秀吉がバテレン追放令を出した頃から晴信の立場が怪しくなってきます。関ヶ原の戦いで小西行長がなくなると、晴信はキリシタンの拠り所となり、彼らを匿うようになります。
そして、江戸時代になるとさらにキリシタンへの迫害が厳しくなりました。
そんな時、晴信の部下がポルトガル人の船員とトラブルを起こし、晴信側に死者が出ました。そこで晴信は徳川家康に許可をとってこのポルトガル船を撃沈。しかし、この事件以来イエズス会との関係が悪化してしまいました。
そこに本多正純の家臣岡本大八が
「有馬家が龍造寺家との争いで失った土地を今回の事件での恩賞として与えよう」
と徳川家康が言っていると晴信に伝えました。そして、江戸幕府との仲介をするという名目で、大八は晴信から仲介料を受け取ります。
本多正純は徳川家の重臣で参謀じゃ
ところが、これは完全なる仲介詐欺で晴信は騙されていたため、一向に大八から恩賞に関する連絡は届きません。そこで晴信は直接正純に確かめたところ、大八のウソが露見。
大八は市中引き回しのあと火刑にされ、騙された晴信は甲斐(山梨県)に流罪され、切腹を命じられました。ところがキリシタンは切腹することができなかったため、晴信は家臣に首を切り落とさせたといいます。
徳川家の家臣なのに、大八はキリシタンだったんだよ
これ以来、キリシタンへの取り締まりは強化されていくよ
まとめ
有馬晴信はキリシタンになることで、貿易を行って富を得た武将でした。ところが、甘い詐欺に引っかかってしまい悲しい最期を迎えてしまいました。