
藤堂高虎といえば加藤清正と並ぶ築城の名人やなー

高虎は主君を何度も変えたことでも有名じゃなー

戦国時代では主君を何回も変えることは一般的やったもんなー
それでは藤堂高虎の生涯をみていこう!
藤堂高虎の年表




徳川和子は徳川家康の孫で、皇后となった人物やなー


江戸幕府は朝廷との関係を持とうとしたんじゃなー
「禁中並公家諸法度」もだして、朝廷に干渉しておるしなー


藤堂高虎の相関図




たくさんの主君を転々としているなー


戦国時代では「主君を七度変えてこそ一人前」といわれておったんじゃ


藤堂高虎の誕生
藤堂高虎は1556年、近江(滋賀県)に藤堂虎高の次男として生まれました。藤堂家は地元の小領主でしたが、戦国時代の波にのまれて農民にまで落ちぶれていました。
高虎は近江の大名であった浅井長政に足軽として仕え、姉川の戦いで活躍して武功をあげます。織田信長によって浅井家が滅ぼされると、浅井家臣の阿閉貞行、磯野和昌、織田信長の甥織田信澄の家臣として仕えました。ところが、主従関係は長続きせず流浪生活を送っていました。


高虎は流浪生活中に無銭飲食をしたというよ


最高の主君との出会い!!
高虎は1576年に豊臣秀吉の弟である豊臣秀長に仕えました。高虎の合戦での活躍はめざましく、鉄砲隊長まで昇格。さらに紀州征伐で武功をあげると城持大名にまで出世しています。


このころに高虎ははじめて人生初の築城をおこなうよ
主君である豊臣秀長が亡くなると、高虎は秀長の後継者豊臣秀保に仕え、朝鮮出兵に出陣しています。ところが、秀保が亡くなってしまうと高虎は出家して高野山に籠ってしまいます。


高虎は主君を何度も変えたから不忠義者といわれることが多いけど
豊臣秀長には忠義を尽くしていたんやなー


秀長は豊臣家をうまくまとめた優秀な武将として知られておる
優秀な主君には優秀な家臣が集まるものじゃ


徳川家康に忠義を尽くす!!
高虎は出家して暮らしていましたが、豊臣秀吉は高虎の才能を惜しく思い、家臣として取り立てます。高虎は秀吉の家臣となると、再び朝鮮へ出陣。合戦での活躍が認められて伊予(愛媛県)8万石の大名となり、宇和島城を築城します。


宇和島城の堀には海水が引き込まれていて
海の上の要塞のようなものだったんじゃ
秀吉が亡くなると、徳川家康に接近。関ヶ原の戦いでは東軍の将として参戦し、西軍の武将の寝返り工作を行いました。
江戸時代になると、徳川家の家臣として江戸城の改築などを行い、32万石の大名にまで出世を果たしています。そして高虎は大坂の陣で徳川方について武功をあげ、家康に忠義を尽くしました。


高虎は伊賀上野城や今治城、篠山城などたくさんの城を築いたんじゃ
また徳川家康が亡くなる際には、外様大名の中でただ1人高虎だけが、枕元への立ち会いを許されています。この時、家康が「死後もそなたに会いたいが宗派が違うから難しい」というと、高虎は隣にいた天海に向かって「改宗したい」といい、改宗します。


日光東照宮には、徳川家康とともに藤堂高虎と天海の3人の像がまつられているなー
家康が亡くなると、徳川秀忠、徳川家光に仕えて、徳川家に忠義を尽くしました。


「浅井長政、阿閉貞征、磯野和昌、織田信澄、豊臣秀長、豊臣秀保、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光」と10人も主君を変えた高虎の生涯が終わったのかー

