
酒井忠次は徳川四天王の1人やな
井伊直政や本多忠勝に比べたらあまり目立たない地味な存在だな

じゃが、忠次は家康殿よりも年上で
家康殿をあらゆる面から支えた武将じゃ

武芸に秀でてるし、参謀としても活躍したもんなー
今回は酒井忠次の活躍をみていこう!
酒井忠次の年表




隠居してからは、目の病気を患って、
ほとんど目が見えなくなってしまったよ


仏門に入って、「一智」と名乗ったんじゃ


酒井忠次の相関図




最年長だった酒井忠次が徳川四天王の筆頭だったんじゃよ


忠次を除いた三武将のことを徳川三傑というよ


酒井忠次の誕生
酒井忠次は1527年、三河(愛知県)に酒井忠親の次男として誕生。父・忠親は徳川家の前身となる松平家の家臣であったため、忠次も父とともに松平広忠の家臣となりました。


この頃の松平家は織田家と今川家に挟まれていて、苦しい時代やなー


三河以来の譜代の家臣!!
松平家は竹千代(徳川家康)を主君・今川家へ忠誠の印として人質となると、忠次はこれに同行。また、小勢力であった松平家は織田家と今川家の争いに巻き込まれ、柴田勝家によって福谷城を攻め込まれると、忠次は城外にでて戦い勝利をおさめています。


勇猛な柴田勝家を破ったのにあんまり有名じゃないなー


織田家と徳川家が同盟を結ぶことになったから、あまり語られないんじゃろな
桶狭間の戦いにより今川義元が撃たれると、松平家は独立を目指します。ところが、三河で大規模な一向一揆が勃発。多くの家臣が家康に対して反旗を翻します。忠次は家康にひたすら忠誠を誓い、一揆を鎮めました。この功績が認められて、忠次は東三河の吉田城城主となり東三河衆を束ねることになります。


三河一向一揆では多くの家康の家臣も一揆に味方したけど、
そのほとんどが松平家への帰参を許されているよ
家康は朝廷より「徳川」の姓を与えられ徳川家康と名乗り、織田信長と清洲同盟を結びました。そして、織田徳川連合軍は浅井朝倉連合軍と姉川の戦いを起こします。このとき、忠次は先陣として朝倉軍に突入しました。
また、武田信玄が徳川領に侵攻し起こった三方ヶ原の戦いでは、徳川本隊は大敗を喫するも、忠次は激闘の末、小山田隊を撃ち破っています。


三方ヶ原の戦いで主君・徳川家康が敗走した際には
太鼓を大音量で鳴らして味方の士気をあげたんじゃ
合戦では兵の士気が大事じゃからな
織田信長が大量の鉄砲を用いて、戦国最強といわれた武田騎馬隊を撃ち破った長篠の戦いでは、忠次は最大の戦功を挙げます。
軍議で、忠次は織田信長に背後からの奇襲攻撃を提案。すると、信長から別働隊4000を与えられ、見事に奇襲攻撃を成功させました。


信長は「背に目を持つ如し」と忠次の功績を称えたよ


不運な運命!!
主君・徳川家康はついに遠江(静岡県)を手中におさめ、浜松(静岡県)に本拠地を移したころ、長男・信康との確執が生まれるようになります。さらに信康の正室で信長の娘・徳姫とも嫁姑問題で仲が悪くなっていました。


信康の母・築山殿と徳姫の仲が悪かったのに
信康は妻ではなく、母に味方していたみたい
そんな時、徳姫は夫・信康に関する不満を父の織田信長に手紙で訴えました。これに怒った信長は家康に対して、信康に切腹を命じるよう通達。信康の側近であった忠次は必死に信長や家康に弁護するものの、その甲斐虚しく信康は切腹されられてしまいました。


信康が武田家と内通していたのも、切腹の原因といわれているよ
その後、忠次は本能寺の変の後に起きた天正壬午の乱では徳川家の勢力拡大に貢献したり、小牧長久手の戦いでは森長可を敗走されるなどの活躍をみせています。1588年に長男・家次に家督を譲ると、京都で静かに暮らしました。