どうする家康を見逃した方はこちら

島津の退き口はなぜ起きた?

戦国小話
ひろ
ひろ

島津の退き口といえば

島津義弘が合戦に敗北して関ヶ原から鹿児島まで撤退したことだな

豊臣秀吉
豊臣秀吉

井伊直政本多忠勝などの猛将をすり抜けて強行突破したんじゃ

伝説的な撤退劇といってよいな

ひろ
ひろ

今回はどうして島津の退き口

起こってしまったのかについてみていきましょう!

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島津が西軍となった理由

島津義弘は東軍に与したいと考えており、会津征伐に動いた徳川家康から、伏見城の援軍要請を受けていました。ところが、伏見城を守っていた鳥居元忠に、「殿からそのような援軍要請の話は聞いていない」と言われ、入城を拒否されてしまいます

すでに西軍に取り囲まれていたため、義弘は仕方なく石田三成の要請を受けて西軍に味方しました。

ひろ
ひろ

鳥居元忠は敗れてしまったけど

島津が味方していたらどうなっていたんだろう?

鳥居元忠。徳川家康への忠誠心が凄まじく
三河武士の鑑と称賛された。(常楽寺蔵)

島津家は分裂状態だった?

またこの頃、島津家はもめていました。義弘の息子・島津忠恒が家老の伊集院忠棟を殺害すると、忠棟の息子・忠真が反乱を起こすという島津家内でお家騒動が起こっていました

ひろ
ひろ

忠棟が横暴だったから殺害されたみたい

また、義弘の兄・島津義久豊臣秀吉を嫌っていたため、西軍に味方することをよく思っていませんでした。つまり、島津家は上方(京都)にいる義弘、薩摩(鹿児島県)の義久と跡継ぎの忠恒の三分裂状態であったといいます。そのせいで、上方にいる義弘が援軍を要請しても、兵がほとんど集まりませんでした。

ひろ
ひろ

京都にいた義弘には島津の兵を動かす決定権がなかったんだなー

豊臣秀吉
豊臣秀吉

義久は島津として東軍か西軍のどちらかにつくことを避けたかったようじゃ

島津義久。義弘の兄。島津家内で強い発言力を有していた。
(東京芸術大学大学美術館蔵)

関ヶ原の戦いにて

結局、義弘はほとんど兵を集めることができず、関ヶ原の戦いに参戦することになりました。その数たったの1000人。島津家よりも石高の少ない、長宗我部家は5000人、立花家は4000人と多くの兵を出陣させていました。

そのため、義弘は石田三成から軽んじられてしまい、本陣への夜襲の提案を無下にされてしまいます。そうして義弘は戦意を失っていました。

ひろ
ひろ

この話は徳川家が石田三成を悪者に仕立てるために

創作された話ともいわれているよ

合戦が始まると、義弘はわずかな手勢しかいないため防戦に専念していたようです。やがて、小早川秀秋の裏切りにより、西軍が総崩れとなると東軍に囲まれて島津隊の退路が塞がれてしまいます。義弘は切腹を覚悟したものの、家臣の説得を受けて薩摩に帰国することを決意しました。

ひろ
ひろ

こうして伝説の島津の退き口が始まるのか

島津の退き口

島津隊は四方八方を敵軍に囲まれてしまったため、薩摩に帰るには敵軍に正面から突っ込んで退却するしかありません。義弘は福島正則の脇を突き抜け、井伊直政本多忠勝らの追撃から逃れて大坂の堺を目指しました。ようやく薩摩までの船がでている堺に到着した頃には、1000人いた兵も80人と激減していたといいます。

ひろ
ひろ

退却は後ろに逃げることが普通だけど

背後にも敵がいたら仕方ないか

豊臣秀吉
豊臣秀吉

義弘が生きて帰って「島津の武名」をアピールするためともいうぞ

正面突破してでも、義弘が薩摩に帰りたかったのには訳がありました。もともと、義弘は徳川方に従おうとしていました。それを、家臣の手違いで断られてしまいます。もし、義弘が関ヶ原で討ち死にしていたら、これを証明できる人はいません

つまり、義弘は戦後処理で島津家が取り潰しに合わないように徳川家康に説明する大役を果たすために薩摩へ戻りたかったのです。結果、徳川家康は島津家を処分することなく、島津家に本領安堵を約束しました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

義弘は薩摩に戻ると徳川に対する軍備を固めたんじゃよ

それに家康は最期まで島津家が存続していることを警戒してたんじゃ

ひろ
ひろ

見事にその予想は的中、、、

まとめ

島津の退き口は武将の間でも話題となった出来事でした。もし、島津の退き口が成功していないと島津家は存続せず、幕末の大逆転がなかったかもしれません。

また、腹心・中馬重方ちゅうましげかたは島津義弘を薩摩まで帰国するためにあらゆる手段を尽くしたといいます。武士にとっての命よりも大事な旗印を「目立つから」といってへし折り、わずかな食料をみつけては「ワシらが殿を守るからワシらが食わんでどうする」と主張したようです。見事に義弘を薩摩に送り届けると、島津家内で一躍時の人となりました。

ひろ
ひろ

この中馬重方と合理主義の義弘は息があってたんだろうな

島津義弘。「鬼島津」の異名で
武名をとどろかせていた。(大日本六十余将)

コメント

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