豊臣秀次は豊臣秀吉の養子で
豊臣家の跡取り候補だった武将!
じゃが、秀吉に謀反の疑いをかけられて切腹させられてしもうたんじゃ
どうして秀次は切腹させられたんだろう?
今回はその真相にも迫っていきましょう!
豊臣秀次の年表
若き名君と知られ
領民から慕われていたんじゃ
それに、領民たちの間でおきた争い事を仲裁して
事態を収拾させているよ
豊臣秀次の相関図
秀次は秀吉のはからいで
池田恒興の娘と婚約したんじゃ
これは秀吉が清洲会議に向けて
味方を増やすための作戦ってことか
豊臣秀次の誕生
豊臣秀次は1568年、尾張(愛知県)の百姓だった弥助と豊臣秀吉の姉・ともの長男として生まれました。叔父の豊臣秀吉は織田信長の家臣となり、次々に城を陥落させていました。その際、4歳の秀次は和睦の条件として宮部城主もとに人質として送られます。2年ほど人質生活を送ったのちに親元へ返されましたが、13歳のときに三好康長のもとへ再び養子にだされました。
2回も養子にだされて大変!
やがて、豊臣秀吉が明智光秀を討ち取り、柴田勝家に勝利すると、秀次は豊臣家に戻って秀吉の家臣となりました。秀吉の甥として期待されて出陣した小牧長久手の戦いでは失態を犯してしまいます。秀次は別働隊の総大将を務めましたが、徳川方の榊原康政に奇襲攻撃を仕掛けられて壊滅的な大敗を喫しました。
このときに、池田恒興や森長可などの名だたる武将が討ち死にしたんじゃ
秀次は大敗してしまったため、秀吉から激しい叱責を受けたといいます。ところが、紀伊征伐のときには汚名返上すべく、一揆勢の首を一つも取らず打ち捨てて皆殺しにしました。さらに、小田原征伐では小田原の支城を半日もかからずに陥落させています。
秀次はかなりの猛将だったのか
関白就任
1585年、豊臣秀吉が関白に就任すると、秀次は豊臣姓を下賜されました。秀次は叔父・豊臣秀長とともに豊臣政権を支える存在となります。また、千利休から茶を学び、連歌や能楽の研究をしており、公家から文化人として認められていました。
秀次の人生は秀頼が生まれるまでは順調だなー
1591年1月に豊臣秀長が病死し、ついで8月には秀吉の長男・鶴松も夭折します。そのため秀次は秀吉の養子となり、関白に就任しました。秀次は秀吉の跡取りとして活躍し始めていましたが、淀殿が1593年に豊臣秀頼を出産します。
秀吉は大喜びして、「日本を5つに分け、その内の4つを秀次に、残る1つを秀頼に譲る」とか、秀頼と秀次の娘を婚約させると言い出しました。秀次は秀吉の露骨な秀頼への溺愛に不安を感じ、持病の喘息が悪化したといいます。
秀次はなんとなく自分の身に
危機が迫っている事を感じとっていたんだろう
とはいえ、表面上は良好で目に見える様な対立や確執はなかったようじゃ
豊臣秀次の切腹
1595年、突如として秀次に謀反の嫌疑がかかりました。鷹狩りを口実に謀反の協議を行なっていることや、朝廷に金銀を献上していることがその理由とされています。
秀吉は秀次に伏見城にきて直接話をしようと出頭を要請しました。しかし、秀吉は出頭させておきながら秀次に会おうとはせず、「高野山へ入れ」と命令しました。秀次は剃髪して出家し、高野山に軟禁されました。秀次の妻子たちは捕らえられ、家老や重臣たちは切腹させられています。高野山に入りすることで死を免れたはずの秀次でしたが、その後切腹を命じられて亡くなりました。
高野山の人へは俗世の人が介入できないはずなのに、、、
秀次の首は秀吉のもとへ届けられました。しかし、秀吉はこれでは満足せずに、秀次の妻子にも処刑を命じました。三条河原で次々と子どもから斬首されてゆく様子はあまりにも無惨であったため、観衆の中には奉行に対して罵詈雑言を発す者もおり、見物にきたことを後悔した者もいたといいます。
鴨川は真っ赤に染まったようじゃ
秀次の側室になる予定で
まだ秀次と会ったこともない駒姫(最上義光の娘)をまでも処刑されているよ
その後
処刑を正当化するために秀次の素行の凶悪性を広めました。秀次は剣術に優れていたため、刀剣鑑定や試し斬りを任せられており、これが「関白千人斬り」と吹聴されました。とはいえ、これらは豊臣秀吉が行ったイメージ操作にすぎません。
秀次は殺生関白と揶揄されたとか
また、この事件においてなによりも異常なのは秀頼を支えるはずの秀次とその家臣を根絶やしにしてしまった豊臣秀吉です。秀吉がこのような粛清を行った理由は謎ですが、この事件により豊臣家滅亡の要因となったといえるでしょう。
豊臣秀吉最大の失策じゃ
まとめ
豊臣秀次は謀反の疑いをかけられただけで切腹させられてしまいました。切腹の真相は下にまとめておきます。
- 豊臣秀吉が実の子である豊臣秀頼を溺愛するあまり、次期豊臣家の当主の豊臣秀次を抹殺したかった説
- 豊臣秀次の重臣が幅を利かせるようになり、反感を抱いた石田三成が謀反の疑いを捏造した説
- 淀が豊臣秀頼以外の豊臣家の跡取り候補を処分するように秀吉に讒言した説
- 豊臣秀吉は豊臣秀次をもともと処刑するつもりはなく、豊臣秀頼が生まれたことで追い詰められた秀次が自害した。これに逆上した秀吉はその妻子を亡き者とした説
結局この事件で一番得をしたのは徳川家康か、、、