
福島正則は七本槍の一人として数えられ
豊臣秀吉子飼いの武将として豊臣家を支えた武将!!

関ヶ原の戦い以降は徳川家に仕えておるが
平和な江戸時代になると幕府に改易を迫られてしもうたんじゃ

どうして正則は平和な時代になった途端に改易された?
何か裏事情がありそう、、、
福島正則とは?
福島正則は尾張(愛知県)に生まれました。豊臣秀吉の親戚であったため、幼い頃から秀吉に仕官していました。


加藤清正とはこの頃から仲がよかったんじゃ
正則は武勇に長けた武将であり、賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人に数えられています。ところが、気性が荒いため、考えの合わない石田三成を嫌っていました。そのため、豊臣秀吉が亡くなると徳川家康に従い、東軍の武将として関ヶ原の戦いに出陣しています。戦後、安芸(広島県)50万石を賜り、広島城を居城としました。


関ヶ原の戦いで徳川家に従うことで
50万石の大名にまで出世できたんじゃ


次は改易の理由を見てみましょう!


家臣に切腹を命じたことも。(東京国立博物館蔵)
改易の理由
1619年、大坂の陣から数年が経過し、徳川の時代となっていた頃、広島に台風が襲いました。台風により水害が発生し、広島城も被害を受けました。そのため正則は雨漏りしている部分のみを修繕しました。ところが、このことが幕府の逆鱗に触れます。というのも当時、城の築城や改築には幕府の許可が必要だったからです。


徳川秀忠が定めた武家諸法度という法律だな
正則方の言い分としては2ヶ月も前から届け出を出しているのにも関わらず、受理されないから修繕したというものです。たしかに正則の言い分をみると、幕府に落ち度がありそうですが、実際には届け出の前に新しい城を破却するように命じられていました。そのせいで、広島城の改築の許可が下りなかったようです。


正則は台風がくる前
正則は禁止されていた新城の築城を無断で行なっていたのか
正則は参勤交代で江戸に入ると幕府にこの件について謝罪し、「修復した部分を破却する」という条件で話がまとまりました。ところが、正則は本丸の修築部分のみを破却し、二ノ丸、三ノ丸の修築部分は据え置きました。このことで、再び幕府に咎められてしまいます。さらに、人質として江戸に送るはずの次男の忠勝の出発を遅らせたにも関わらず、弁明を拒否してしまいます。
これにより、安芸50万石は没収され、信濃4.5万石と大幅な減封命令を受けてしまいます。


改易させられた正則は家督を息子に譲って
出家してしまったんじゃ


「関ヶ原の功臣とはいえ、ルールに背くことは許されない」というのは建前だろうな
正則が改易された本当の理由を探ってみましょう


(wikipedia)
処分された本当の理由
本多正純陰謀論
正則は修繕の届け出をしたものの、幕府からの返答がないため2ヶ月も待ち続けました。この2ヶ月も音沙汰なしを策謀したのが、本多正純ではないかといわれています。この頃の江戸幕府は権力争いが顕著となっていました。正純は正則をうまく使うことで自分のポジションを確立したいという考えがあったのかもしれません。


正純は性格の悪い武将として知られているから
こんな説が流布したのかも
幕府の計画的犯行
大坂の陣で豊臣家は滅亡したとはいえ、徳川としては秀吉に長年仕えていた正則の存在を見過ごすわけにはいきませんでした。正則は徳川が城を建てることに文句を言って加藤清正に嗜められており、大坂の陣では危険だからと江戸での留守を命じられています。つまり、正則は幕府に歯向かう可能性のある大名として捉えられたのでしょう。


正則は気性が荒いから
何をしでかすかわからんしのー
また、正則が治めていた安芸は対毛利への重要な拠点でした。外様の正則ではなく、信頼できる大名を配置したいため、正則が改易された可能性もあります。さらに、戦国の気風を残す武断派大名の正則を処分することで、江戸時代が平和な世の中であることをアピールする狙いがあったのかもしれません。


正則は幕府に操られてしまったのか、、、
まとめ
福島正則が改易された理由としては色々な説が囁かれていますが、結局のところ、正則は関ヶ原の戦いで徳川に利用され、用が済んだから捨てられてしまったのではないでしょうか?
また、正則の改易によって他の大名に緊張感が生まれました。幕府としては合戦での失態ではなく、規則違反によっても改易させられる時代がきたことを知らしめたかったのではないでしょうか?


この騒動は日本中の武士を震撼させた出来事だっただろうな