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[大河ドラマ2024 光る君へ]紫式部の娘・藤原賢子(演 : 南 沙良)は道長の子どもだったの?夫は藤原道兼の息子!?

大河ドラマ
ひろ
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藤原賢子紫式部ですね

大弐三位」と呼ばれて歌人として有名ですね

紫式部
紫式部

賢子も私似て

文学に秀でていたのよ

ひろ
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今回は紫式部の娘の賢子の生涯をみていきましょう!

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藤原賢子の誕生

藤原賢子・大弐三位(演 : 南沙良)紫式部(演 : 吉高由里子)藤原宣孝(演 : 佐々木蔵之介)との間に生まれました。出生ははっきりとはしませんが、999年だと言われています。大河ドラマ光る君へ」では「賢子」は「かたこ」と呼ばれていますが、「けんし」、「かたいこ」と読む説もありはっきりとわかっていません。女性の本名は家族以外に知られることは珍しかったため、「賢子」と本名が記録として残っていることは珍しいことです。

ひろ
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大河ドラマ」では藤原道長紫式部の子となっていましたが

実際のところどうなんでしょうか?

紫式部と宣孝は20歳程度の年の差があったため、賢子が3歳の頃に宣孝は流行り病により亡くなってしまい、紫式部が再婚しなかったために兄妹はいなかったとされています

さらに5年後に、母・紫式部彰子(演 : 見上愛)のもとに宮仕えしたため、祖父・藤原為時(演 : 岸谷五朗)のもとで育ちました。

ひろ
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紫式部も為時も文学に精通した人だったから

賢子も文学の知識が豊富だったんでしょうね

賢子は母・紫式部と同じく彰子のもとに出仕

賢子は紫式部や為時に似て、頭脳明晰だったのは間違いないようで、1017年、賢子が18歳の頃に母と同じく彰子のもとに出仕しました。しかし、賢子が出仕したときには母・紫式部は亡くなっていました。

ひろ
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紫式部は娘の賢子が彰子に出仕しても困らないようにするため

紫式部日記」を記録したとも言われています

母・紫式部は朝廷での生活に馴染めず苦労していましたが、賢子は同僚の女房たちと良好な関係を築き、恋の駆け引きにも長けていたと言われています。

ひろ
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大河ドラマ・光る君へ」でも

紫式部は朝廷の暮らしに非常に苦労していましたが

賢子はうまくやってたんですね

賢子は恋多き女性だった!?

藤原賢子は母・紫式部と違い男あしらいの上手な女性で、数多くの男性と関係を築いています

藤原頼宗(藤原道長の次男)

藤原定頼(藤原公任の長男)

源朝任(源雅信の孫)

賢子が恋をした男性はくせの多い人物ばかりでした。藤原頼宗は歌はうまくても、極度の近眼でよく躓いていました。藤原定頼は軽薄な人物で次のようなエピソードを残しています。

あるとき藤原定頼は賢子へこんな歌を贈りました。

見ぬ人に よそへて見つる 梅の花 散りなむ後の なぐさめぞなき

あなたが会ってくれないので、慰めに梅の花を見ていました。この花が散ってしまった後は、何を慰めにしたらいいのでしょう。

対する賢子の返歌は次の通りです。

春ごとに 心をしむる 花の枝(え)に 誰がなほざりの 袖か触れつる

春が来るたびに心を占めてきたこの梅の枝に、一体誰が残り香をつけたのでしょうね

つまり「藤原定頼が他の女性と会っていたから賢子は会いたくない」というわけです。

ひろ
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藤原定頼は和泉式部の娘をからかって

見事な歌であしらわれたエピソードも残っています

賢子の夫は藤原道兼の息子!?

賢子は朝廷内で色々な男性をあしらってきましたが、結婚したの藤原道兼息子・藤原兼隆です。

ひろ
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大河ドラマ・光る君へ」では

道兼は紫式部の母・ちやはを殺害した人物ですから

驚きですよね

賢子は道兼の間に娘(源良宗室)を出産すると、すぐに離婚してしまいました。これは、夫・藤原兼隆が非常に乱暴者で、従者にたびたび暴力行為を働いていたことが原因といわれています。

ひろ
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これは道兼が乱暴者だったことを

受け継いでしまっていますね、、、

その後、賢子は東宮権大進・高階成章と再婚し、高階為家と娘を出産しています。

賢子は後冷泉天皇の乳母に!

後朱雀天皇と嬉子の間に親仁親王・後冷泉天皇が生まれました。しかし、数日で嬉子が亡くなってしまいます。嬉子の姉の彰子は信頼のおいていた賢子を親仁親王・後冷泉天皇の乳母に任命しました。乳母は非常に名誉な職であり、希望者も多かったため、賢子が彰子にいかに信頼されていたかがわかりますね。

紫式部
紫式部

賢子がわたしよりも彰子様から信頼されているような気がするわね

賢子は親仁親王・後冷泉天皇を大切に育て、非常に良好な関係を築いていました。そのため、次のようなエピソードが残っています。

賢子が里帰りして夫のところに戻ると、親仁親王・後冷泉天皇は「はやく帰ってきてくれ」という歌が送られてきました。それに対して、賢子は「親仁親王・後冷泉天皇のそばが恋しい」といって、歌を返しました。

賢子は女性として最高位の大弐三位まで出世

親仁親王が即位して後冷泉天皇となると、賢子は「従三位」の位を与えられました。さらに、夫の高階成章は「太宰大弐」に任命されました。太宰大弐」は太宰府の次官で、太宰府は現在の福岡県に位置しており、夫の高階成章は京都から遠く離れた太宰府に転勤することになりました

ひろ
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夫が「太宰大弐」に、賢子が「従三位」だから

大弐三位」と呼ばれているんですね

夫の高階成章はすでに50歳後半であったことから、平安時代ではすでに長老の域で先が長くありません。そのため、賢子は夫の高階成章に会うために、2度も「京都」から「太宰府」まではるばる船に乗って向かいました。

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