「大河ドラマ・光る君へ」で活躍中の一条天皇の子・後一条天皇(敦成親王)!
道長様の傀儡になったようにもみえるけど
実際はどうだったのかしら
今回は後一条天皇の生涯をみてみましょう!
後一条天皇の誕生
後一条天皇(敦成親王)は一条天皇(演 : 塩野瑛久)の第二皇子として誕生しました。母は藤原道長(演 : 榎本佑)の娘の彰子(演 : 見上愛)です。後一条天皇の誕生は難産であり、彰子は出産のために30時間も苦しめられました。藤原道長は後一条天皇を大変可愛がり、後一条天皇におしっこで着物を濡らされても喜んだと言われています。
彰子様の出産の様子は「紫式部日記」にまとめておいたわ
しかし、彰子はこれまで、皇后・定子(演 : 高畑充希)の子である敦康親王のことが気がかりでした。一条天皇も敦康親王を次の天皇にしたいと考えていましたが、道長の顔を伺っていました。
「光る君へ」でも彰子が敦康親王を可愛がっている様子が描かれていましたね
後一条天皇の誕生100日の式典に際して、事件が起こりました。宴に参加した藤原伊周(演 : 三浦翔平)は誕生した後一条天皇よりも、自身の甥である敦康親王のことを目立たせようとしました。しかし、伊周はこの事件により、失脚してしまい、道長の優勢が保たれました。
伊周の詳しい話は↓を見て下さい
後一条天皇はわずか4歳で皇太子に
一条天皇が病により亡くなると、冷泉系の三条天皇が天皇となりました。このとき、皇太子(東宮)となったのは、第二皇子の後一条天皇(敦成親王)でした。これは、後一条天皇(敦成親王)に藤原道長という強力な後ろ盾がいるにもかかわらず、敦康親王には後ろ盾がいなかったためです。一条天皇が亡くなったとき、後一条天皇(敦成親王)はわずか4歳でした。
彰子は敦康親王が皇太子になるべきと藤原道長に進言していたようです
三条天皇が即位すると、藤原道長は天皇と対立するようになりました。藤原道長は三条天皇を眼病であることを理由に退位に追い込みました。
このとき、冷泉系と円融系の2つの系統がありましたが、
道長は血の繋がりのある円融系の天皇を推したため、冷泉系は途絶えてしまいました
後一条天皇は藤原道長の傀儡?
後一条天皇はわずか8歳で即位しました。後一条天皇は11歳で元服し、藤原道長の娘の威子を妻としました。
一条天皇も7歳で即位していますね
天皇は世継ぎを残すために、他の女性も入内しますが、後一条天皇は威子以外に妻をとりませんでした。これは、藤原道長と頼通が藤原一族以外の妻を取らせることで、世継ぎ争いに発展することを避けるためでした。
威子が入内したことで
中宮・威子、太皇太后・彰子、研子・皇太后と
「一家三后」となりました
藤原道長は後一条天皇が即位し、天皇の祖父となったことで有名な「この世ば わがよとぞ思う望月の 欠けたることもなしと思えば」を歌ったとされています。また、このときに敦康親王がわずか20歳の若さで亡くなってしまいました。
藤原道長の絶頂のときですね
後一条天皇の急な崩御
1020年、後一条天皇は病弱であったために、流行り病の天然痘を患ってしまいました。後一条天皇は祈祷をして病を鎮めようとしましたが、祈りも虚しく、マラリアに感染してしまいました。
藤原頼通もマラリアに感染して亡くなっているので
当時、本当に流行していたんでしょうね
1036年、後一条天皇は糖尿病(飲水病)を患い、わずか29歳で崩御しました。あまりに急に亡くなったため、譲位されず、弟の後朱雀天皇が即位しました。
藤原道長も糖尿病で亡くなっていて
藤原一族は糖尿病で亡くなる人が多いようです